一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

縁起(原因と結果:因果の法則)

 これまで述べて来たように、人は無明(無知)が原因で真実を明らかに見られないので、煩悩に騙されて欲に目がくらんでいます。ブッダは苦しみを無くすために、苦しみが何故発生するのかと言う原因を探りました。例えば病気が発生するのを防ぎたい場合に、その病気の発生原因を調べる必要があるのと全く同じ理屈です。
 ブッダの示す教えは自然界に生じる現象を極めて客観的に観察して述べられているので、そう言う意味では現代科学と同じ方法論が用いられています。
 苦の原因の話に戻ります。少し難しいですがブッダは熟慮の結果、次の順序で苦が発生していると明らかに見えたと伝わっています。これを縁起と言います。世間でよく言う「縁起が良い」「縁起が悪い」というのは仏教用語ですが、この現代で使われる意味は下記の本来の縁起とは少々異なっています。
縁起とはすなわち、
無明が原因で行(形成力)が生じ、
行が原因で識が生じ、
識が原因で名形(心身)が生じ
名形が原因で六処(六根:五感と心)が生じ、
六処(六根)が原因で触が生じ、
触が原因で受が生じ、
受が原因で渇望(欲)が生じ、
渇望が原因で執着が生じ、
執着が原因で有(界)が生じ、
有が原因で生が生じ、
生が原因で老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みが揃って生じます。
全ての苦の塊は、この様に生じています。
専門用語が多くて解りにくいかも知れませんので、現時点で要点を抜き出すと、「無明が原因で煩悩の感覚で六根から生じる受(感覚)を味わうと、それを凄く欲しいと思って(渇望)、執着して主観で世界(有/界)を見るので間違って「(身勝手な)自分」と言うものが生まれ、無常による変化で老死、嘆き悲しみなどを味わう事になる、と言うことです。
 もう少しまとめると、どんなものでも「自分のもの」と愚かに掌握すれば、無常で維持できずに失って苦しむと言うことです。これを苦の発生と言います。
 しかしこれは逆に考えれば、煩悩に支配されて愚かな見方で物事を捉えなければ、苦は発生しないとも言えるのです。これを苦の消滅と言います。
つまり
生が消滅すれば老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みは生じません。
有が消滅すれば生は生じません。
執着が消滅すれば有(界)は生じません。
渇望が消滅すれば執着は生じません。
受が消滅すれば渇望(欲)は生じません。
触が消滅すれば受は生じません。
六処(六根)が消滅すれば触は生じません。
名形が消滅すれば六処(六根:五感と心)は生じません。
識が消滅すれば名形(心身)は生じません。
行が消滅すれば識は生じません。
無明が消滅すれば行(形成力)は生じません。
この様にして縁起の流れは消滅するので、苦は消滅します。
苦に発生と消滅があると言うのは仏教において大変重要な教えで、これが見えなければブッダは悟ったとは言わなかった、とすら言われています。それほど縁起の教えは大切なのです。
 縁起の話は心の中で生じる因果を示していますが、世の中のあらゆる出来事、変化はそれが生じる直接の原因(因)と間接の原因(縁)が揃って初めて生じます。
例えばスイカの種を撒いていない畑に突然スイカが生えてくる事はありません。また、因であるスイカの種を撒いても、季節、土の状態、水、日の光等の縁が揃っていなければやはりスイカは生えて来ません。あらゆる出来事はそれにふさわしい因縁が揃って生じている(原因と結果の法則:因果の法則)と見るのもやはりとても大切な教えです。これは、身の上に生じる出来事には、必ず自分が何らかの原因になっている事を意味しているからです。どんな出来事でも、完全に自分が関係ない事はない、と言うとても重要な法則です。これは自分が関わる全ての出来事は、完全に他人のせい、と言う事はあり得ないと言う意味でもあります。
 次回から縁起の観点から苦の発生を防ぐ方法をもう少し詳しく見て行きます。