一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

無常

 ブッダの教えは色々ありますが、まず最初に三相(無常、苦、無我)を学びましょう。今回はこの三相のうち、この世の有り様を示す無常についてです。この無常はブッダが生まれるきっかけになったとも言えます。
 人は生まれたときから必ず変化し続けていて、若く発展する時期もありますが、例外なく老いて、あるいは病んで、結局死にます。人だけでなく全ての生物は死に向かって進みながら生きていると言うことが出来ます。生物だけでなく、発生した全てのものは必ず変化して崩壊し、消滅します。物質などの形のあるものだろうと、法律などの形の無いものだろうと、発生したものは全て変化して消滅します。
 例えばさっき暖めたお茶は、ちょっと時間が経てば冷めます。これはお茶を暖めた事(原因)によって温かいお茶になったのが(温かいお茶の発生)、周りの空気に冷やされて(原因)冷たいお茶になったのです(温かいお茶の消滅、冷たいお茶の発生)。これは形のあるものの例です。形の無いもの(無形)は例えば国です。どんなに長く続いた国家だろうと、必ず滅びます。有史以来永遠に続いてきた国家はひとつもありません。長くてもせいぜい300年から500年位です。日本なども江戸幕府から大日本帝国、日本国ところころ変わっています。
 この様にこの世の中で発生した全てのものは、必ず変化して消滅します。そしてその消滅が縁となってまた何かが新しく発生します。これがずっと繰り返されます。永久に同じ状態で続く形や無形はありません。常に続く事がないので、これを無常と言います。
 無常はこの心身にもあてはまります。一秒前の心や身体と全く同じに戻れる人は、この世のどこにもいません。子供の頃甘いものが好きだったのに、今は甘いものよりお酒が好きになっていたりします。これも無常です。見て、聞いて、嗅げて、味わえて、触れる、考えられるもの全ては片時も休まず変化し、止まっていません。昨日と今日で自分の身体が同じに見えるのは、変化がゆっくりで小さいので見えないだけで、実際には一日分確実に変化しています。

悟るまで

 シッダルタ王子は季節に応じた三つの城を作ってもらったりと、とにかく手厚く遇されて育てられた様です。 しかし、王子は誰でも必ず老い、病み、死ぬことを見て、この世が苦しみに満ちている事を知ります。それを何とかしたいと切実に考えた王子は、ラーフラと言う息子が生まれてから間もなく出家します。29歳の事とされています。
 その後王子は六年厳しい断食などの苦行を行いました。しかしあるとき苦行が心の進歩に繋がらないと思い立ち、食事を受ける事にします。 王子はスジャータと言う長者の娘から乳粥の布施を受けた後菩提樹の下で座り、生老病死を越える法則を悟らない限り二度と立ち上がらない決意をして熟考を始めたとされています。
 王子は王城に戻ればこんな苦行をせず、様々な望みの地位や物が手に入る生活がある、と言う抗い難い誘惑を悪魔と見抜き、これに打ち勝ちました。更に熟慮観察した結果、遂に王子は全ての苦しみには欲望が隠れている事が真実ありのままに見えました。このときに全ての人は首に縄を繋がれ、首輪にぶら下がった小さな餌、つまり欲望の満足を互いに奪い合っている様な状態だと明らかに知ったのです。この明るさを智慧の光、などと言います。比喩であり、電灯の光のような我々が目で見る電磁波のことではありません。
 生きること(心地よい生存に執着すること)は苦しみであり(苦諦)、身勝手から生じる欲望、そこから生じる執着が苦しみの原因であり(集諦)、欲望と執着に支配されなければ苦は消滅する事(滅諦)と、苦の消滅に到る方法(道諦)、全てが見えたのです。この悟りは後で説明する縁起や、それを簡単にした四聖諦(苦集滅道)と言うものです。この偉大な悟り、大悟によって王子はアラハンサンマーサンブッダとなり、ここに目覚めた人ブッダ(Buddha)が生まれました。

初めての仏教

 ブッダ(Buddha)と言う名前が日本で認知され始めたのは手塚治虫のマンガあたりからなのでしょうか。ブッダは「目覚めた人」と言う意味で、生きる上での苦と,苦の原因と,苦の消滅と,苦の消滅の方法を悟った人のことです。ブッダは一般的にはシャキャ(釈迦)族のゴータマ・シッダルタ個人を指しますが、悟った人は亜羅漢(アラハン)で、過程に差がありますが中身はブッダと同じです。ブッダは教えを乞わず自力で亜羅漢になった人、と言う区別がされるようです。
 ネパールにあったとされるカピラバストゥ城を治めていたシュットーダナ王の息子であるゴータマ・シッダルタ王子が自力でブッダになったのが、我々の認知する歴史上では最初とされています。 しかし、ブッダになった人はもうゴータマ・シッダルタと完璧に同じではないのです。日本で幼名が竹千代だった人が、成人して松平元信(後の家康)になったら誰も彼を竹千代と呼ばないのと似たようなものです。ですからブッダはブッダあるいはブッダを意味する敬称(正自覚者、最終解脱者、スガタ、天人師、アラハンキーナーサバなど)で呼ぶべきでしょう。*1
 ブッダは何に目覚めた、何を悟ったのでしょうか。このブログでは全く何も知らない人が順を追っていける様に、しかし詳しく正確にブッダが悟った教えを説明して行こうと思います。本ブログでは理解のしやすさのためにブッダに対する敬称を省略することを初めにお断りさせて頂きます。

*1:しかし、仏教で大切なのは考え方、つまり物の見方です。ブッダと言う呼び方に馴染めなければ、「お釈迦様」でもとりあえず結構です。