一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

両岸の話、触(その2)

 前回は内外(内側二つ、外側一つ)の原因が全て揃って苦が生じる事を説明しました。今回は具体的に内外の原因の例を見てみましょう。

 例えば自分にとって凄く面倒で嫌な事を頼まれたり、自分が良いと思っているのとは違う方法で物事を進められたりすると、大変不快に感じます。もっと具体的に言えば、風呂掃除したくないときに風呂掃除を頼まれれば、「風呂なんて一度位洗わなくても大丈夫だよ。」と言ったりします。しかし、無明(事実が見えないこと)に隠された心を見てみると、「(本当はやりたくないから、やらない言い訳をしよう、怠慢な自分を正当化しよう、もし誰か掃除してくれるなら風呂は綺麗な方が良い。)」と言う様に極めて身勝手な考えが潜んでいます。

 しかもたちの悪い事に、普通の人はこの隠された自分の考えが見えません。自分の中、何よりも一番近い所にあるのに見えないのです。無明と言う無明が覆い隠しているからです。これが怒りや嫌悪、怠慢、強欲と言ったあらゆる苦の温床になっています。無明、煩悩は悪質な結婚詐欺師の様なもので、味方のふりをしてあらゆる害をもたらします。傍から見たら何故騙されるのか不思議に思える詐欺事件は、被害者が詐欺師を味方だと思い込むから生じます。煩悩は身勝手を助長するので味方に見える所が本当に悪質な点です。

 具体例に戻ります。仕事で相手から自分の気に入らない方法を提案されたりすると、「なんだ!そんなやり方で上手く行くものか!(お前は馬鹿で無能なんだから、俺様の言う通りにしてれば良いんだよ!!)」などとそれこそ怒り狂います。実はその方法の方が色々良い面があったとしても、自分の都合の視点でしか見られないので理解できません。こう言う人達は本当に普通にどこにでも見かける事が出来ます。

 この種の無明から生じる感情に支配されていれば、目一杯苦です。特に、怒っている人は煩悩に完全に支配されていますので、人間ではありません。死人であり地獄の住人です。以前人は肉体が生きている間に何度も輪廻を繰り返していると説明したと思いますが、この様に生きている間に死んで地獄に堕ちたりもしています。

 何故死んでいる事が解らないかと言うと、普通の人は肉体の活動が止まって棺桶に入る事しか死を知らないからです。ブッダの教え(ブッダダンマ)を知らなければ、私もこの事実を肉体が棺桶に入るまで(入っても)知らなかったでしょう。

 身勝手な欲、つまり煩悩にかられて何かが欲しくて欲しくてたまらない時なども地獄です。ブッダの言葉には煩悩はたまに訪れる(いつも煩悩に支配されていたら狂って死んでしまいます。)とありますが、煩悩に完全に支配されれば、その都度死んでいます。

 しかも、日常的に良く怒る人と言うのは、目一杯我があり、身勝手で、怒りが内外の共同製作物である事を知りません。なので、前回のゴキブリの話の様に、悪い事をいつも外部の原因のせいにばかりしていて心から反省する事がありません。こう言う状態は大変な苦でありながら苦の原因を知らないので、焦熱地獄に例えられる様な悪循環です。

 この種の状態は大変な害があり、一刻も早くこの様な生死を繰り返して行く循環を抜け出す事が大切です。ブッダは教えの初期には弟子をサマナ(修行僧)と呼んでいた様ですが、後に比丘(びく)と呼んでいます。比丘とは輪廻の害が見える人、と言う意味だそうです。良く映画などで恋人同士が「生まれ変わっても、また一緒になろうね。」などと言うセリフが出てきたりしますが、輪廻は無常の循環に組み込まれた状態であり、害ばかりでちっとも素晴らしい事ではないのです。一時は熱愛状態の恋人同士が、少しして別れる事も良くあります。芸能界などは結婚して数年で離婚するのがまるで話題作りの義務なのではないかと思うほどです。これは、二人のうちどちらかあるいは両方が相手を好きな状態から、相手を好きではない状態に「生まれ変わった」のが原因です。これも無常であり、輪廻です。

 無常な状態は、落ち着きがなく、目まぐるしく変化していて、熱く燃えているので、感覚として苦を感じられなくても結局は苦です。燃え盛る炎をわざわざ抱きかかえる物好きな人はあまりいませんが、欲望の対象は物理的な火がついていなくても、無常の見えない炎で熱く燃えているので、掌握すれば苦になると言う道理です。

 世の中は無常なので人間の力では外部の状態を思い通りに制御する事はできません。したがって苦は内部の原因、特に間違った身勝手な心から生じる愚かな触~受・・・苦のルートを防ぐ事でしか減らせません。

 まさに苦かどうかは心がけ次第と言うことです。