一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

五蘊

 「自分」という執着を捨てることで苦が無くなるというのがブッダの教え(ブッダダンマ)だということをこれまでに見てきました。今回は何を「自分」と見ているかについてです。人間は色々なものを「自分のもの」とか「自分自身」と見ます。ゴータマブッダは世界(主観的世界、自分)を物質と心に分類しました。所有していると思い込んでいる物、特に身体は物質なので「色(目に見える物、映像になるもの)」とひとまとめに、心に相当する部を四つに分類してこれらを「名」とし、心身を合計五つに分類しました。これを五蘊(ごうん)と呼びます。実際問題として、大多数の人は普通、心と身体を「自分」と思っています。今回はこの心と身体、つまり心身(色名、名色)の分類、すなわち色受想行識を見て行きましょう。
 身体(色)について詳しく見れば頭、胸、腹、手、足、、、というようにかなり細かく分類してみて行くことが出来ます。しかしこれまで述べてきたように身体は必ず崩壊します。それに例えば手足などを失ったから身体ではなくなるか、というとそうでもありません。適切な処置があればまだ生命活動は続けられます。右手と左手、どちらも大切ですが、どちらが苦の減少に比率が高いかと言うとこれは同じです。ブッダの見地から見たら身体を細かく分類することは意味がないので、ブッダダンマでは身体は「色」として扱います。ブッダは「なぜルーパ(色)と言うかは、崩壊する性質があるので、ルーパと言う」と述べていることからルーパは物とか身などと訳す方が解りやすいでしょうが、映像として見られる物と考えるなら「色」と言うのもあながち間違っている訳ではありません。しかし普通の人にとって、nama-rupaはそのまま「心身」と訳した方が解りやすいとは言えるでしょう。
 一方で、ブッダは心(名)を受、想、行、識の四つに分類しています。
 受は感覚の事であり、幸せに感じる喜びの受と、苦痛に感じる不幸の受と、喜びでも苦痛でもない不幸不苦受の3つに分類することも出来ます。毎日毎秒、感覚だらけです。これを受蘊と呼びます。
 想は意識とか自覚することです。今目覚めている、眠っていない、肉体が死んでないと知覚できれば目、耳、鼻、舌、体を介した刺激に対してこれはこうだ、あれはああだと区別するので記憶認識と説明されることもあります。
 行は作り出す力です。形成力と訳されることもあります。色々な意味で使われますが、心の中で作り出される考えなどが行です。どのような意味で使われても、作り出す、という意味が含まれます。
 識は目、耳、鼻、舌、体、心で感じることに対する意味付け、認識です。多くの人が思っているような魂ということではありません。少し難しくなりますが、魂があると見れば常見であり、魂など無いと見れば断見で、どちらも極端であり、ブッダダンマの中道ではありません。ブッダの言葉にもしばしば死んだ後に何々に生まれ変わると言う表現がありますが、これは言葉通りそのまま棺桶に入る肉体の死の意味だけに限定してしまうと後々説明しにくい事が生じますので、ここでは輪廻は心の変化、新しい心が生まれる事を含めておきます。これはとても大切な考え方です。
五蘊とはこの様に心身を身体と四つの身体でないもの、心に分類した考え方です。五蘊とは心身の事だと考えても大きな問題はありません。ダンマを細かく見ていくときに五蘊とした方が便利なのでこの単語を使います。