一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

在家で出家する

 こちらのターン・プッタタートの短文にもあるように、在家、つまり普通に家に住んで仕事の収入で生活する人でも出家に近い修行をすることは可能です。

 そもそも悟るためには何をしなければならないのでしょうか。それは家から外に出る事ではない事は明らかです。何故なら家の外に住んでいて、仕事をしない人が悟れるのなら、この世に悟れる人は大勢いることになります。しかし、事実は明らかにそうではありません。

 悟るためには執着を捨てることこそが必要なのです。このためには心を正しい状態に保ち、行いも正しくして避けるべきものを避けます。悟るにはこれらの努力をして「自分と呼ぶような実体はない、なりたい、欲しいと思うものは何もない」と心の底から納得することが必要です。

 つまり、仮に家に住んでいても、その家、場所に執着しなければ外でもお寺でも家でも場所は関係なく悟れると言う事です。ブッダが出家を勧めたのは、家に居れば嫌でも色々な享楽や所有物に関わる機会が増えるので、悟るために大変効率が悪いからです*1。しかし家に居たとしても家も含めて全ての物事を「自分のもの」とか「自分の所有している機会」などのように間違って見ず、あらゆる享楽から離れていれば、これは「梵行(ぼんぎょう)」となりますので出家とほぼ同じ生活になります。

 本当に単純に、寝る場所が外であるか、壁の中であるかの違いだけです。むしろお年寄りや体力のない人などは、無理に出家して外で生活していたら、悟る前に身体を壊して死んでしまうかもしれません。そうなっては元も子もないので、在家で出家するつもりで生きることは、現代の人にとって非常に現実的な方法と言えます。かく言う筆者もそのように生活しています。

 ブッダは、ブッダの教えを正しく理解して梵行をしている人は身体が遠く離れている場所にいても如来ブッダの一人称)の近くに居るが、心を正しく修めていない人は身体が近くに居ても如来からは遠くに居ると言っています。

 もちろん在家の人は世俗と関わらなくてはいけないので、仕事や生活に使う物や身分などの何かしらを所有しなければなりません。ですからこれらの所有を心の底から「自分のもの」と掌握すれば執着ですので悟りからは遠ざかります。また、既婚者だと性交から完全に離れる事は難しいでしょう。しかしこれら全ての所有は「一時的な預かりもの」「レンタル品」と正しくみなせば、何かを「自分のもの」とか「自分自身」とみなす見解(有身見:うしんけん)から離れるのと同じように過度な執着はしなくて済みます。性交についても夫婦が互いにそれが苦だと明らかに見えれば、離れる事は不可能ではありません。いきなりは無理でも、少しずつ心がければいずれ可能になります。

 このように生きると、命を繋ぐための最低限の事以外に使うお金は無いので、心はダンマで仕事をします。このように仕事をすると義務を果たした(仕事を布施とした)満足感がある上に、お金も増える一方です。欲が無いので余計な事にお金を使わないからです。

 ブッダは在家の人間は収入の1/4を生活に、1/4を仕事に、1/4を困っている人を助けるために、そして残りの1/4を将来の不測の事態に備えるために蓄えよと言っています。人にもよると思いますが、今の時勢では収入の半分を自由に使える人は中々いないかもしれません。しかし、生活を非常に質素にしてあらゆる享楽(酒、たばこ、あらゆる趣味嗜好)を止めれば生活と仕事に使うお金は2/3位で済むかもしれません。そうして残りの1/6を困った人を助けるために使い、1/6を将来のために蓄えることは出来ます。この割合は各自の事情に応じて、人それぞれで構わないでしょう。

 心がブッダに近づけば、その人はブッダの近くに居ます。一千一万のお経を暗記しても、感情に心が支配される人はブッダから遠い所に居ます。 極端な話教えを全く知らなくても怒らない人、感情の支配下にない人はブッダのすぐ近くに居ます。

 ですから在家の生活をしていても、心をブッダの近くに持っていくための、在家出家は可能です。もちろんお金や取引に関わりを一切持たず、食と生活必需品だけ托鉢する本当の出家の方が梵行としては優れていると言えますが、残念ながらこの様な本当の行を薦める寺院は今は本当に少ないです。

 それに皆さんがすぐ行える上記のような在家出家は現実的かつ非常に効果的な実践であり、一部のお金儲けが目的のお寺や戒禁取だらけのお寺で出家するよりはるかに良く、お勧め出来ます。

*1:厳密にはそれだけとは言えませんが、こう言ってもそう大きな間違いではありません。