一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

取(執着)と滅苦の関係

 苦の原因である取(執着)は、四つに分類されます。愛欲の満足への執着である欲取、見解への執着である見取、儀式儀礼などを含めた誤った滅苦の方法への執着である戒禁取、何でも「自分」あるいは「自分のもの」と認識する執着である我語取です。

 この最後の我語取は他の3つの執着の原因にもなっています。ひとつずつ見ていきます。

 満足の感覚は「自分の満足」と思うので生じます。他者の満足と思っているものへ執着することはあり得ません。

 見解、考え方への執着は「自分の見解、考え方が正しい」と思うので生じます。他者の考え方と思っているものに執着することはあり得ません。

 儀式儀礼、効果のない方法、例えば神に成功を祈るとか、星の運行を占うなどは、「自分の知っているこの方法に効果がある」と執着することで生じます。他者の方法と思っているものに執着することはあり得ません。

 この様に四つの執着のうち最初の三つは全て四番目の我語取に含まれる事がわかります。もし我語取が無くなれば執着は全て無くなります。しかし最初の三つが無くなっても我語取はまだ残ります。

 例えば自分と他者の善し悪しを比較すること、これは良く慢心として現れます。慢心があると客観性を欠き、酷ければ相手が正しくても間違っていると思い込んだりします。また、ほんのちょっとしたイライラ、禅定への執着などの少しの無明が残ります。我語取さえ無くなれば完璧な解脱で、阿羅漢です。

 仏教が他の宗教と完全に一線を画するのはこの我語取の規定があることです。他の教義ではまだ「自分」があり、「最高の自分」をゴールに設定したりしています。つまり完全な無我が滅苦につながると言う教えがありませんので、苦を完全に消滅させる事が出来ません。

 仏教は発生と消滅のある全てを無常と正しく真実ありのままに見て、我語取を無くすことによる完璧な滅苦を規定しています。

 同じ理屈で無常である心身、つまり五蘊(形受想行識)を自分あるいは自分自身と間違ってとらえること、つまり五取蘊が苦であると知る様にと言う教えが仏教の真髄です。