一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

八正道(苦集滅道のうちの「道」)

 ブッダは苦を無くすために、事あるごとにこの八正道(八支正道)を説いています。八正道は四聖諦の苦集滅道のうちの「道」である滅苦の方法です。
これは、下記に示す八項目からなります。
1.正しい見解(サンマーディッティ)
2.正しい志(サンマーサンカッパ)
3.正しい言葉(サンマーヴァーチャー)
4.正しい行動(サンマーカンマントー)
5.正しい生活(サンマーアーチウォー)
6.正しい努力(サンマーワーヤーノー)
7.正しい理性、注意(サンマーサティ)
8.正しい三昧、集中(サンマーサマーディ)

 八つの項目の正しさなので八つの正しい実践項目と見た方がわかりやすいかもしれません。少し仏教を学んだ人なら、暗記していて暗唱できる人も多いでしょう。しかし、ダンマは見る深さが大切です。オウムや九官鳥の様にただ唱えるだけではダンマにはなりません。八つの項目の示すことはどのような内容なのかを見て行きましょう。

 この八つの項目は三つのグループに分けることが出来ます。

 見解、智慧の部分
1と2、つまり正しい見解と正しい志です。見解が正しくなければ、つまりダンマでなければ志も正しくなりません。サンカッパを考えと訳すと行(サンカーラ)と誤解されるおそれもありますし、正しい考えであるところの「志」や「望み」と訳した方が良いでしょう。以前述べた様に正しい望みは欲望ではありません。見解が正しければ望むこと、志も正しくなります。

 戒の部分
3~5までが戒律の部分になります。つまり、正しい見解を持っている人は3のように言葉遣いも正しくします。当然「てめぇ」とか「俺」とか「お前」みたいな言葉遣いをしません。また、言葉遣いを綺麗にするだけでなく、4のように行動も正しくします。ずるをしたり、隠し事、あるいは他者に加害するようなことをしません。そのように言動を正しく保つこと(3と4)が5の正しい生活を送ることに繋がります。

 定の部分
6~8の項目が一般には定と呼ばれる部分に相当します。6は字のごとくダンマを実践する努力を保つことです。努力が無ければすぐ無明から生じる煩悩の欲に負けてお酒を飲み、性的な事に溺れ、欲にだらしない人間になります。そうならないためには努力が必要です。7のサティはよく「気づき」と訳されますが、サティは気づくだけではありません。車に轢かれそうになった人が、「あ、車に轢かれそうだ。」と気づくだけならそのまま轢かれます。当然、正しい理性があれば轢かれる事を回避します。ただ気づくだけでは何もしなくても良いと誤解されかねません。正しいサティというのは油断せず状況を良く観察して、正しい判断をすることです。つまりこれは理性と言えます。サティを働かすというのは理性を働かすことです。8のサマーディは一般には正定と訳されているようですが、そのまま三昧あるいは集中と訳した方が意味が通じやすいと思います。サマーディというのは三昧と訳される様に、心が集中して安定三昧している、つまり心が常に正しい状態に安定している状態です。何も特別な技法が必要なことではありません。大人なら誰でも必要に応じて集中して安定した状態、つまり三昧にできます。

以下後日追加分
通常の教えでは戒→定→慧となっています。これも正しい順番です。八正道全てに先行する先鋒の役割を果たす正しい見解は通常悪いものとして扱われる「見解(ディッティ)」として述べられています。これはどういう事かと言うと、サマーディに到っていない状態からいきなり智慧(パンニャー)は生じないので、いきなり納得できなくてもまず知識として「何が正しいのか」を知る必要があると言う事です。
知識として正しい見解を持って正しい言動をしていくと(戒)、正しい三昧(定)に到り、智慧(慧)が生じて来ます。これは更に正しい見解の精度を上げるので、智慧が正しい戒を導き、戒の実践が定を生じさせ、更に智慧が生じます。八正道はこの様な正しさへの好循環を生じさせる実践項目になっています。

後日追加分ここまで

 心が正しい状態に安定しているとはどういうことでしょう。これはつまり「悟り」の状態に他なりません。正しいサマーディ、というのは要するに目的とするゴールであると言えます。他の7つは全てこのサンマーサマーディを得るためのものだと言えます。サンマーサマーディが完璧であれば正しい智(サンマーニャーナ)と正しい解脱(サンマーヴィムッティ)が十分に生じ、本当に最終解脱、つまり阿羅漢(アラハン:最終解脱者)となります。

 サティやサマーディと聞くと何か非常に特別なことの様に感じますが、少なくとも大人になれば誰でもサティやサマーディはあります。サティとサマーディが無ければスパゲッティを食べるとき麺を鼻の穴に入れることになります。自動車を運転するときにハンドルを握らず、アクセルとブレーキを間違えて踏みます。文字も正しく書けません。普通に気をつけていられれば実際にはそのようなことにはなりませんから、サティとサマーディは誰でも皆自然に使っているものです。八正道ではこれらをダンマで正しく行うことを意味しています。

 また、全ての項目は常に1の正しい見解に導かれていると見ることが出来ます。いくら頑張っても、見解が正しくなければ志はもちろんの事、言葉も行動も生活も、努力も理性も集中力も正しい方向には向きません。しかしいきなり完璧な見解を持つことは難しいかもしれません。でも大丈夫です。この八項目を繰り返し意識して言動を正しくしていくと、自然と1の正しい見解の精度も上がってきます。そうすると付随する2~8の七項目の精度も上がり、また1の見解の精度が上がると言うように、心、見解がどんどん正しい方向に向かう良い循環が出来てきます。こうなると「自分」と言う間違った感覚はどんどん薄れてきて、それに伴い欲望も執着もどんどん減ってきます。両者の発生源となる間違った心の状態である「身勝手」「わがまま」が減るからです。

 これは欲にかられて喜びを求め、満足すると更に強い喜びを求めてどんどん欲望と執着が強くなる悪循環と全く正反対のプロセスになっています。

 ブッダの言葉に四聖諦は常に世俗の考え(世俗諦)と反対の方向を向くとありますが、この八正道も四聖諦の道(滅苦の方法)ですから当然欲の増大する方向である世俗諦とは反対を向く訳です。

 以上を見てみると八正道とは特別な訓練をして技術を要する様なことは何もなく、常に心掛けを正しく保って欲に負けず、心を感情に支配されずに正しい言動、生活をする事を意味することだと見えてくるのではないでしょうか。

 まさにこれが苦を滅する方法であり、ブッダがはっきりと「比丘(出家僧)がこの八つの道を守って暮らすなら阿羅漢が途絶える事はない」と断言しています。我々もこの八つの道を少しでも高い精度で守って暮らせれば、それだけ苦は減ると言えるでしょう。