一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

両岸の話、触(その1)

 前回の縁起は少し難しかったかもしれませんが、苦を減らすためにはとても重要な話です。今回はその縁起(因果)の中で特に重要な触と受(感覚)について見て行きたいと思います。
 触とは何でしょうか。触は目耳鼻舌体心(六処入、六根つまり物理、精神的内部要因)に、それらの対象となる光音臭味接考(物理、精神的外部要因)が触れ、それを各六つの識(眼識、耳識、、、意識)で感じたときに生じるものです。内、外、識の3つが無いと触は生じません。もう少しわかりやすく言うと、例えば目(内)に何らかの光/映像(外)が映り、それを心で認識(識)すると初めてその映像を意味のあるものとして知覚する(受が生じる)ことが出来るという話です。
 具体例を挙げてみます。今日でも昨日でも良いです。外に出て目で見えた人の中で、知らない人の最初から三番目までの人の性別を挙げてみてください。あるいは、ランダムな数十個の数字が羅列された紙を見て、一瞬でそれらの数字を全て覚えられるでしょうか。よほど特殊な職業かサヴァン症候群のような何らかの疾患でもない限り、無理だと思います。何が言いたいかと言うと、人間は映像(この場合は知らない人)が目に映っただけではその映像の意味を認識できません。眼の認識(眼識)の働きがあって初めて「これは何の形だ(何色だ)、あれは何の形だ(何色だ)、見えたものは何々だ。」と知覚することが出来ます。
 これを説明したのが「触」の話です。目だけでなく、耳鼻舌体心でも全く同じメカニズムで知覚する働きがあります。この蝕が生じるとほぼ同時に体内で自動的に感覚である「受」が発生します。これまでに何度も害を述べてきた喜びの「受」もこの受の一種です。
 受とは何でしょうか。目について言えば、「映像」と知覚した瞬間に「この映像は好きだ。好ましい。」または「この映像は嫌いだ、厭わしい。」あるいは「この映像は好きでも嫌いでもない。」という感覚が生じます。これが受です。目だけでなく、耳鼻舌体心でも全く同じメカニズムで「受」が生じます。いずれにしてもこの「受」を「好きだ」と思えば喜びの受(幸受)で、「嫌いだ」と思えば不幸の受(苦受)で、「好きでも嫌いでもない」と思えば不幸不苦受になります(受は分類の仕方によって何通りもの分類、例えば108通りなどが可能ですが、ここではこの三種の受で規定します)。ここで「好き」とか「嫌い」とか「好きでも嫌いでもない」という感覚を自分のものと思えば、幸受ならそれをまた求める執着に繋がり苦になります。苦受ならそれを自分の苦だと思い込んで心で激しく苦しみます。不幸不苦受も自分のものと思うと無常で変化することによって失うので結局苦に繋がります。
 何を長々と説明しているのか解りにくいかもしれませんが、ここで重要な事は、無常である「受」を「自分のもの」と思ってしまうと、前回の縁起で述べた様に「受」~・・・~「生」~「老病死その他あらゆる苦」の発生までベルトコンベアの様に確定した苦の流れが生じてしまいます。
 読む人によっては何を言っているのか解らないか、単なる屁理屈にしか見えないかもしれません。しかしこれが真実です。ここで「受」からひとつ戻って「触」について考えてみます。触は内部のものである目耳鼻舌体心に、それらの対象となる光音臭味接考が触れることで生じます。つまり触には内部の原因と、外部の原因があるという事です。例えばゴキブリが部屋に出たら大体の人は不快、つまり苦と思います。このときこの苦の原因は何でしょうか。「そんな解りきったこと聞いてくれるな、ゴキブリに決まってるだろう」と言わないで欲しいと思います。上に説明した様に、この場合ゴキブリの形が目に映って、眼識によって知覚し、「この映像は嫌いだ」と思ったことで(厳密にはゴキブリという考えによる心の受も苦受になっているでしょう)苦受が生じたのです。これを分類すると、ゴキブリという外部の原因と、目と眼識という内部の原因が全て揃って苦受が発生しました。縁起(因果)の法則とは「原因が全て揃ってそれが縁になり結果が生じる。」と言うものです。特に、「内部と外部の原因が全て揃って触が生じて、受が生じ、欲や執着を経て苦の発生につながる。」という苦の発生メカニズムはとても大切な点です。この触が内外の原因から生じることをブッダは川の両岸に例えています。他にも此岸(俗世)と彼岸(涅槃)の様な川の両岸の例えもあります。
 「内外の原因が揃って苦になるなら、内部の方の原因である目を潰せば目による受で生じる苦はなくなる筈だ。」と考えた方は中々鋭いです。確かに目がなければ目による苦は生じません。しかし、目を潰すのは自分のものではない身体を害する身勝手な行為なので、その方法は使えません。それに現実的に誰もやりたくないでしょう。実際、そんなことをしなくても苦受を避ける方法はあります。何故苦が生じるのかと言えばそもそも最初の原因の「無明(無知)」があるからなのですが、いきなり自分の無知を無くせと言われてもそれは不可能です。そこでブッダは「受」を「これは無常のものだ、つまりこれは自分のものではない、自分の感覚として受け取るべきでない」と正しく見る事を勧めています。このように受を真実ありのままに正しく見られるようになれば、苦のベルトコンベアの流れは生じないので、心で受け取る苦は無くなると見ることができます。これを「受で止める」と言います。