一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

みんな受(感覚)の奴隷?

 前回五蘊を学びましたが、それは今回の話をするためです。受というのは目耳鼻舌体心(これを六根とか六処入と言います)で感じたことから生じる感覚です。受にはそれを感じると喜ばしく思う「幸受」、痛みや苦みなどの感じると苦痛に思う「苦受」、壁に触っているとかその種の感じても喜びにも苦痛にもならない「不幸不苦受」の三種類があります。人間はそれこそ常にこの三種類の受を味わっています。 自然の流れで生きてきてブッダダンマを知らない人は、特に最初の「幸受」をとても良いものだとみなします。例えば美しい絵画や異性を見たり、可愛い赤ん坊やペットを見たりしてうっとりする目の「幸受」、美しい音や音楽を聴いてうっとりする耳の「幸受」、芳しい香りを嗅いでうっとりする鼻の「幸受」、美味しい食べ物や飲み物の味にうっとりする舌の「幸受」、好ましい手触りや快感を伴う接触にうっとりする身体の「幸受」、私はお金があって幸せだとか、可愛い子供がいて幸せだとかの心地よい考え、都合の良い望ましい考えにうっとりする心の「幸受」、どれもうっとりして何度も味わいたくなるものばかりです。
 誰もがこの幸受に夢中になるので、何度もこれを味わおうとして努力します。勉強して良い大学に入り、良い会社に就職しよう、良い異性と結婚しよう、などという考えも元を質(ただ)せばこの幸受をより沢山味わおうというのが動機になっています。戦争なども根源の理由は沢山の喜びの受を得ようというのが動機です。
 察しの良い方はもう気づかれたかもしれませんが、理屈で考えれば、このような喜びの受を沢山味わおうと言う考えが「所有」「執着」「身勝手」「わがまま」と言ったあらゆる苦の原因になっている事もお解りになるかと思います*1。何故なら喜びの受に極めて陶酔すれば、これを得るためならばどんな悪い事でも自己正当化して実行しようとするからです。よく世間で大きな会社の偉いと言われる人や、大学とかの偉いと言われる先生が横領や不倫などの不祥事で騒ぎになるのも、ひとえにこの幸受への欲が原因です。
 また、人に限らずあらゆる生命はそれぞれの命を少しでも長く存続、維持しようと自然界にプログラムされています。自分の生命を守るために他者を傷つけてでも食糧を奪ったりします。外部からの攻撃に対して反撃して身を守ろうとするのも自己保存の欲がそうさせます。種の保存のためにこう言った欲をプログラムするのは自然界の自然な戦略とみることもできます。
 ただし身体の命は無常で不死ではないので個体の存続には限界がありますから、この自然界のプログラムは余裕があれば個体の保存の代わりに遺伝子の保存を目的として生殖させます。これはかなり重要な目的なので性欲は非常に強烈な欲望として生じるように出来ています。ただし、生殖行為は危険も伴いますので、特に動物の場合は生殖の時期を限定したりもします。今の人間は外敵に襲われる機会が非常に減っているので、一年中繁殖期です。しかしこれも暫定的なもので、もし生命が危険に晒される場合は生殖などと言っている場合ではありません。溺れている人が「セックスしたい!」と強烈に感じている様では溺れて死んでしまいます。こういう場合は自己保存が優先されますから性欲はどこかに消え去ってしまいます。セックスなどは、極めて客観的に見ればすごく不潔で苦労の多い行為であり、好き好んでするべきものではありません。例えばいわゆるノーマルの性癖の人が同性や年をとってヨボヨボで今にも死にそうな骨と皮ばかりの老人とセックスしたいと思うでしょうか。実際には自然界が生命の各個体を騙して、遺伝子の保存に有利な異性と性交させるようにプログラムしているだけです。
 以上のことを良く考えてみると、六根(目耳鼻舌体心)の喜び、すなわち幸受には隠された非常に凶悪な害が見えてきます。身体の痛みなどの苦受は、時間が経てば普通消えますから喜びの受に比べると大した害は無いようにすら思えてきます(苦痛を喜ぶ人もいますからその場合は幸受になりますが)。こうして見てみると、幸受はゴキブリホイホイの餌のようなもので、甘い匂いに誘われてその餌に飛びつくと、抜け出せなくてにっちもさっちも行かなくなる罠です。ブッダは幸受を釣り針が入った餌に例えています。中に針が入っていると知らないで飛びつくので、死ぬか、死ぬほどの苦しみを味わうことになるからです。もちろん他の二種類の受も「自分のもの」と見れば執着の原因になりますから良いと考えるべきものではありません。例えばブッダの存命時には苦行で自らの心や、あるいは魂が浄化されると信じて一生懸命苦痛を味わう修行をした人が大勢いました。しかし、これはともすれば苦受への執着を産むことになりかねず、もしそうなれば幸受に執着するのと全く同じ結果になってしまうのです。幸受に執着する人々を馬鹿にしていた苦行僧が、実際には苦受に執着して幸受に執着するのと同じ轍を踏んでしまうとなれば、滑稽を通り越して哀れに思えてきます。
 人は良く「自分は自由だ」などと言ったりしますが、ほとんど誰もが喜びの受の支配下におかれていて、欲望にコントロールされています。欲望をコントロールできる人はほとんど居ません。実際、これが出来るのは数少ない出世間地(世俗を超えた悟りの境地、ローグッダラブーミ)にいる聖人だけです。善人も善を「自分のもの」と考えて執着していますので、仮に五欲(目耳鼻舌体の幸受への欲)からは抜けていても善に対する欲望がまだあります。こう言う欲に支配された大多数の人は世間地(ローギアブーミ、俗世)にいると言われます。

*1:更に深く見ればこれらの苦の原因は「自分」と言う概念、錯覚、執着である我語取が根本的なものです。