一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

欲望と正しい希望(正志、発心)

 今回は欲望について少し詳しく見ていきたいと思います。何が欲望なのかを正しく知らなければ、欲を減らすと言っても難しいのです。悟った人でも食事をして、眠ります。これを見たら食欲と睡眠欲に支配されているじゃないか、という批判が当然考えられます。この批判に対する結論は後で述べます。普通は「~したい」という考えや気持ちは全て欲望だと見てしまいます。しかしそうではありません。行動の動機には、執着する方向に向かう世俗の動機である欲望(欲)と、解脱する方向への動機である正しい希望(正しい望み、志、発心)の二種類があるのです。「このお金(お金でなくても、異性とか立場などの概念でも構いません)が欲しい、自分のものにしたい。」というのは身勝手から生じるので欲ですが、「間違った見解を改めたい、心を良くして苦を減らしたい。」というのは身勝手ではないので正しい希望です。
 つまり身勝手があるかどうかで欲望か正しい希望かに分類されます。では身勝手とは何でしょうか。身勝手とは「この動機、願望が満たされるなら他者にどのような被害があろうが構わない。とにかくこの願望さえ満たされれば良い。」という視野狭窄の考え方です。考え方、見解、ものの見方のことをブッダダンマでは見(けん)と言います。見が間違っていれば、あらゆる悪をなすことを厭わなくなります。罪を恥じて恐れることを慚愧(ざんき)と言いますが、慚愧が減る、あるいはなくなる方向の願望や動機を欲望と言っても良いです。悪見、邪見(間違った考え)があるので欲望が生じます。身勝手なら喜びの受(感覚)を間違って自分の利益と見るので、そのためにはどんな悪でも自己正当化して犯します。最たるものは戦争です。戦争は要するに戦争を起こす人が他者より沢山の喜びの受を得ようとするのが根本的な動機です。多大な人に被害が及びますので戦争を起こそうとする考えは全て欲望であり悪です。個人レベルなら喧嘩をしかけるのはもちろん悪ですし、応戦するのも悪になります。国でも個人でも大差ありません。
 しかし、この世の無常、苦、無我を見て、「この世界は苦だ、生きることは苦だ、この苦から逃れたい」と考えることは他者を害することがないので正見(しょうけん)で、身勝手ではありません。何故なら他者を害することは「自分の都合」「身勝手」があって苦であり、そういうことをしていれば苦から逃れられないからです。前回にも説明したように、苦から逃れるためには身勝手を捨てる必要があります。身勝手を捨てる行動が身勝手なのでは矛盾しています。これは正しい希望です。正しい見解が正しい希望を導いて身勝手を減らすのです。
 俗世に生きている間は、何が欲望で何が正しい希望なのかなどはおそらく考えることすらないので、両者の区別がつかないのは仕方のないことです。しかし、身勝手が増えるか減るかと言う方向、基準によって、欲望(身勝手:増)と正しい希望(身勝手:減)を区別することが出来ます。
さて、最初に挙げた悟った人が食事をして眠るのは欲か否かと言う問題について見てみましょう。完全に悟った人は、肉体を自分のものとして見ないので、別に食べないで飢え死にしても構わないと言えば構いません。しかし肉体もひとつの命ですので、無闇に殺すのは身勝手になります(自殺は身勝手な考えで生じます)。肉体を何か他の動物の食事として与えることはあり得ますが、普通はそれよりもダンマを広める手伝いをした方が生物全体の利益になるので命を繋ぎます。しかし無常である肉体の命に執着してはいませんので、生も死も等価値です。こういう人はいつでも死ぬ準備が出来ていると言えます。普通の人は「自分の命」に執着しますので、死ぬのは怖くて仕方ありません。船が難破して木材に掴まっているとき、自分が生きるためなら他者を棒で殴ってでも生き延びようとします。これが世俗の見です。法律ですらこれを許したりしています。法律を作る人も世俗の見しか持っていないからです。
 最終解脱しない限りは生き物は全てまだ死にたくない、生き延びたいと考えていますから、生き物を殺すようなことは身勝手になります。なのでブッダは生き物を殺してはいけないと教えています。蚊を潰して殺すのも身勝手なので駄目です。食事も本来生き物を殺していますので良くないのですが、普通の人が自分たちの食事を作っていて、その余りを頂くなら新たな殺生はしないことになるので妥協できる許容範囲となります。ただし、食事を摂ることは執着への危険を孕んではいます。これは十分注意しなければなりません。また、肉と野菜とを区別をすることは出来ません。どちらも同じ命だからです。あの人は肉を食べているけど、自分は野菜しか食べないから清浄だ、などと考えるのは明らかな邪見です。
 以上のような理由から、ブッダは生前は托鉢(たくはつ)と言って普通の家の人、つまり在家(ざいけ)に食べ物を分けてもらっていました。この事を乞食だと非難する人はいますが、自ら農耕や牧畜などをすれば米や麦、あるいは牛や豚、羊などを積極的に自らの手で殺す事になります。これでは殺生を犯すことを避けられなくなります。したがって托鉢は出家の修行僧には必須の義務なのです。完全に悟っているなら托鉢が上手く行かなくて飢え死にしても別に構わない訳ですし。
 ブッダが悟った深い真理、解脱の方向に向かう明らかなものの見方を第一義諦(だいいちぎたい)あるいは勝義諦(しょうぎたい)と言います。一方、普通に本当に一般的に考えられているものの見方を世俗諦(せぞくたい)と言います。おそらくこのブログを読んでいると色々な違和感があるのではないかと思います。それもその筈で第一義諦と世俗諦とは常に噛み合わないのです。何故なら明らかに真実をありのままに見たのが第一義諦であり、世俗諦はこの世を間違って見ているのですから。しかし誰でも皆最初は世俗諦でものを見ています。これは仕方ありません。少しずつ世俗の見解に含まれる間違いを認識していくと、段々と第一義諦が理解できるようになってきます。これは深さの問題なので、中々一朝一夕には行かないと思いますが、苦を減らすという人間にとって最高かつ唯一の目的を達成するために努力していきましょう。