一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

欲望と執着

 仏教では欲望、執着をなくす教えがある、と言うのは聞いたことがある方が多いと思います。実際その通りで、欲望、執着が完全に無くなればその人は最終解脱した阿羅漢(アラハン)です。欲望、執着は人の内部の苦の原因です。苦には外部の原因もあるので、苦は内部と外部の原因が両方揃って生じます。これはどういう事でしょうか。
 世の中は無常なので、発生したものは必ず変化します。しかし、人は自分にとって都合の良い状態が永遠に続いて欲しいと思います。例えばずっと死にたくない、若いままでいたい、と考えます。結論から言えばこの様な考え方自体が欲望であり、自分の都合の良い状態への執着です。もし世の中を真実ありのままに見ることが出来れば、「無常だから生じたものは維持することは出来ない。維持しようとすれば不可能な事を行おうとすることになり苦だ。」とはっきり見えるので、自分の都合で物事を見るような無意味なことはしません。
 そうは言っても、人は中々そのように真実ありのままに物事を見ることは出来ないので、生まれてからずっと、この身体は自分、この心は自分、この立場は自分のもの、この財産は自分のもの、と言う様にどんどん「自分」と言う概念を増やして行きます。そうすると当然、「自分の都合」と言う概念も膨れる一方となり、身勝手、わがままさはどんどん大きくなっていきます。これが内側の原因です。
 身勝手、わがままになればどんどん色々な良い感覚(喜びの受)を求める様になり、都合の良い映像、音、香り、味、接触を求める様になります。同時に自分の都合に合わないものは嫌悪して、排除したいと願います。つまり欲望はどんどん増えます。しかし無常なので当然その様な望みが全て叶うことはあり得ません。苦を招く不都合な状況、これが外側の原因です。「自分のもの」と掴む、掌握する準備が心の中で整ってしまっています。これを内側の原因と言います。期待の心は、その通りになれば喜びますが、その通りにならなければ失望します。「どちらか片方だけ」ということは出来ません。当たりくじ(欲しい結果)を握ろうとしているので、出てきたくじを必ず受け取ります。そのくじが当たりか外れか(結果)は、受け取ってから解ります。宝くじを買って、結果が出る前に当たりくじ(喜び)だけ受け取ることは出来ません。これを因果(原因と結果)と言います。
 望みが叶わない状況(苦の結果)になったとき「「自分の」希望通り、都合通りにならない」と思うので、つまり外側と内側の原因が揃うので、怒り、嘆き、悩み、悲しみ、憂いその他全ての苦しみの山が発生します。大切なのは、内外両方の原因が揃う必要があると言う事です。わがままな人でも希望が通っている間は(明らかな)苦にはなりません。これは外側の苦の原因がないからです。そもそもくじを買わない人は、喜びも苦しみもなくなります。これが滅苦です。
 以上に述べたように、欲望、身勝手があっても一部は思い通りになり、満足します。ただし、満足の威力でまた欲しくなるので、また喜びの受を求めます。宝くじを買って、当たりに味をしめてまた買うのに似ています。そして望みが叶わない事が生じて結局苦しみの山が発生します。この様な期待の気持ちの発生と消滅の繰り返しを輪廻(りんね)と言います。
 輪廻と言えばこの肉体が死んで棺桶に入った後にまた違う生命体として生まれて来ることを想像する事が多いと思いますが、そう言う輪廻の存在は確認する方法が無いのでここでは置いておきましょう。実際ブッダもその様な生まれ変わりの話については「説明しない」と断言しています。ブッダは生きている間に苦を無くす方法を説いているので、棺桶に入った後の輪廻について考える必要はあまりないからです。そんな事を考える暇があるなら今この身の上に生じている苦を減らす努力をした方が良いでしょう。
 では実際にどうすれば苦が減るかと言う事が皆さんが一番知りたい所でしょう。既に上に答えは書いてあるようなものですが、「自分の都合」「身勝手」「わがまま」を減らせば欲望とそれに伴う執着が減るので、内側の原因が減り、苦が減ります。宝くじを買わない、ということです。どうかそんな事は出来ないと仰らないで欲しいと思います。皆さんも今までに全く個人的な利益にはならないけど、そうするべきだからした、と言う行動はある筈です。
 例えば道に落ちてるゴミを拾ったり、困ってる人がいたら純粋に善意で助けてあげたり、などの行為が例として挙げられます。大変ではありますが、まるきり不可能な事ではありません。譲って、思いやり、助けて、衝突しそうなら引き下がれば良いのです。正しく考えれば、人に降りかかる大抵の問題は、ほんの少し「我」を抑えて忍耐するだけで済むと見えて来ます。しかもそうすれば利益を得る人はまず間違いなく増えます。自分自身*1も相手の利益を自分の利益と見ることが出来る様になるので、結局利益を得られます。一見矛盾するようですが、「自分」を無くすと誰も損することはありません。利益ばかりになります。人は普通いつも「自分の都合」中心で物事を見ますが、この様に「自分の都合」と言う視点を無くせば自然と皆の利益になることが望ましく、誰の損失にもならないと考えられる様になります。
 自分を無くす、と言うとすぐこんな世界自分の思い通りにならないからどうでも良いや、死んでも構わない、と言う様な発想に至る人もいます。しかし、自分を無くすと言うのはそう言う自暴自棄の乱暴者の考えではありません。自暴自棄の考えにはいつでも裏に「思い通りになるならいつまでもそうなって欲しい」と言う様な極めてわがままで、身勝手な発想があるからです。
 本当に自分の都合がないなら、皆が苦しまないで利益が得られる方が良いに決まっています。ですから、「自分」あるいは「自分の都合」と言う考えを正しい方法で無くせば、その人だけでなく皆の利益に繋がる事がわかる筈です。これも正しい「無我」のとらえ方であり、ブッダの勧める極めて効果的に苦が減る考え方です。

*1:自分の都合を排除した人に自分自身はないのですが、便宜上この言葉を使います。