一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

無我(その1)

 今回は三相の最後、無我について見てみます。まだたった数回ですが、そろそろ難しくなって来たのではないでしょうか。「理屈では何となくわかるけど、納得できない。」「どうも騙されているような気がする。生きていて楽しいこともある。」と思う人は多いのではないでしょうか。
 そうです。騙されているのです。そう感じる読者の方は全員、無明に騙されています。無明とは、自然の成り行きで生きていると自然に生じる誤解や、真実をありのままに見られない状態、要するに無知と思ってもらって構いません。別に皆さんを馬鹿にしている訳ではありません。むしろ騙されている事に気付いて頂いて、真実を見ることで生きる苦しみから逃れてもらいたいと心の底から思っております。世間的にどんなに偉い、有名な学者さんなどでも、どんな大金持ちや有名人でも騙されている人がほとんどです。もちろんそれを知っている人もほとんどいません。
 折角このブログとのご縁があった訳なので、是非とも読者の皆様には、「今自分が騙されている」ということを理解して、利益にして頂きたいと思います。詐欺師に騙されている人を見て、うるさがられるからと黙っているのが親切なのか、うるさいと思われても本当のことを言って気づいてもらうのと、どちらが良いかという話と似ています。
 とりあえず話を戻そうと思います。発生する全ては無常、生きるのは苦、だとすれば、そういうもの全ては本当の「自分」や「自分のもの」とは言えない、とブッダは明らかに見えたのです。本当に「自分」や「自分のもの」があるのなら、「自分」の意に反して老化することも失われることもない。皆「自分」と思い込んであれこれ思い通りになると期待してしまうので、小さい餌に皆が飛びついて奪い合うような苦しい世界が生じている、とブッダは真実をありのまま*1に見ました。
この話はちょっとすぐに理解しがたい事でしょうから、先に世界の話をしたいと思います。普通の人は無意識に何でも「自分の都合」で物事を見ます。例えば犬とそれを見る複数の人がいたとします。ある人はこの犬は可愛い、好ましい、と思う一方で、ある人は犬なんて大嫌い、臭いし吠えるし噛みつかれて怪我したり、まして病気でも移されたらどうしよう、などと言う様にとことん嫌悪することもあるでしょう。ブッダの目から見れば、この両者(可愛いと思う人、嫌う人)はどちらも不幸な人ですが、とりあえずここではその事は置いておきます。
 完全に客観的に見れば、この場合犬とそれを見る複数の人がいるだけなのです。しかし、犬を見る人が複数いれば、それこそ見る人の数だけ見えること思うことは違うでしょう(ここは重要で、後から見返すなどして何度も学習してみてください)。人間は自然の流れで生きていると、基本的には全て主観で物事を見ています。生じている現象を客観的に見ることは普通の人には中々できません。つまり「主観的な」世界は人の数だけある、ということです。例えば同じ教室、会社でも楽しい場所だと感じる人もいれば、地獄の様に嫌な場所だと思う人もいるのです。
  皆さんが学校で習った知識では、宇宙があって地球があって、この世界は一つで、それこそ宇宙開闢(かいびゃく)以来この世界はずっと一つで別れたりくっついたりしたことはない、となっています。しかし、凄く現実的に見れば、それこそ物事を認識する能力がある生き物の数だけ主観的「世界」はあるのです。特に人間に問題がありますから「少なくとも人間の数だけ世界はあります*2」とすれば極めて正確な言い方になります。そして無常ですからそれぞれの世界は全て片時も止まらず、常に変化しているのです。
 ところで「自分」とは何なのでしょうか。この肉体でしょうか、それとも心でしょうか。肉体の場合はこの肉体全てが自分なのでしょうか。改めて考えてみるとこれはそう簡単ではない問題だと気付くはずです。「そんなの決まってるじゃないのこの心と身体が自分だよ。」と仰る方もいるでしょう。ではその人に伺いたいと思います。この世に生まれて以来今までの人生で変わってない部分はありますか?身体についてでも心についてでも何でも良いです。体格やあらゆる身体の状態、好きな食べ物、飲み物、その他趣味でも何でもおそらく生まれてこのかた、同じ状態で止まっていて、不変なものなど何一つないのではないでしょうか。ではこれまでに変化してきて、これからも変化するその心でも身体でも、そのどの時点の心あるいは身体が本当の「自分」なのでしょうか?現時点での心と身体が「自分」と言っても、1秒後にはもうとっくに変化しています。一瞬たりとて止まることがないこの心と身体、一体いつのものが本当の「自分」なのでしょうか。ころころ変わって一つ所に留まらない心と身体は、本当に「自分」なのでしょうか。心身を「自分」と定義すると、何年何月何日何時何分何秒のときの誰々が自分だとしてしまうと、他の時間では変化しているから自分ではなくなります。例えばある恋人と付き合っていたときの「自分」と、今違う人を好きになっている「自分」は同一人物でしょうか?それはあり得ないことです。
 これは深く考える必要のあることなので、先を急ぐ必要はありません。読者の方には急がずじっくり、「自分」で考えて頂きたいと思います。
 次回に続く

*1:ありのまま、と言う言葉を「自然に流されるまま」と誤解する人が多いですが、真実をありのままに見るのと、自然な流れに流されるまま、と言う話は大きく違います。後者は欲望、怠惰の流れで苦が減りません。

*2:この「世界」を「有」とかバヴァなどと言います