一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

怒りを抑える実践方法(その2)

 話を戻しますと、そもそも何故エレベーターで待たされて、これほど怒るのでしょうか。それは「少しでも早く目的の場所に移動したい」と思っているからです。何故早く移動したいのでしょうか。「一秒でも多く待ちたくない。」と思っているからです。何故そう思うのでしょうか*1

 ともあれこの欲求があると「自分の目的の妨害をするものは、何であろうと許さない」と言う発想が生じます。つまり、エレベーターに待たされる事より「自分の都合」に合わない事が許せないのです。事実、上の階から降りてきた人が密かに想う意中の人で、にこやかに挨拶されたりしたら、さっきの怒りはどこへやら、となったりする訳です*2

 結局、怒りと言うのはこれまで何度も述べてきた「自分の都合」優先の(と言うより自分の都合の観点しかない)ものの見方がもたらす感情なのです。実は怒りだけでなく、感情は全て「自分の都合」の観点から生じます。例えば大人から見たらガラクタでしかないものでも、それを欲しがっている子供なら大喜びします。全く興味のないプレゼントを貰っても嬉しくありませんが、それを欲しがっている他の人なら貰えれば喜ぶでしょう。感情とは完全な主観であり、客観的事実とは無関係のものなのです。これは三相の無我の時に説明した「世界」そのものです。

 普通の人でも全く自分の都合に関わらない出来事には感情が絡みにくいですから主観が混ざりにくく、冷静で客観的な判断が下しやすくなります。揉め事があったら当事者だけでなく第三者を入れた方が良いと言われるのはこれが理由です。逆に主観で物事を見ると多かれ少なかれ感情的にしか見えなくなり、心は感情に支配されて全く制御不能になってしまいます。

 つまり全く客観的に最初のエレベーターの話を考えてみると、長くてたかが数分の時間を待つだけの事です。それで何か重大な問題が生じるのでしょうか?普通はあり得ません。もし生じるとしても時間に余裕をもって行動しない自分のミスです。誰か他の人とか、環境のせいではありません。常に「自分の都合」中心のものの見方をしていると、こう言う客観的な考え方はできません。すると何か印象的な出来事がある度に感情が発生して輪廻します。つまり生死に関わる様な重大事件ではない、ほんの取るに足らない出来事を、勝手に心が暴走して生死に関わる重大事に仕立てあげて本当に輪廻してしまうのです。

 これでは救いがないので、感情が生じたらいつもその理由をこの話の様に掘り下げてみます。特に怒りや嫌悪は明らかな苦を感じるので自覚しやすい感情です。これらの感情が生じたらなるべくいつもその理由を探って見ましょう。必ずどこかに「身勝手」な「自分の都合」が隠れている筈です。それを客観的に見て「ああ馬鹿な考え方だな」と思える様になると、段々感情に支配される機会は減ってきます。このように心の状態を極めて客観的に見ることを「ヴィパッサナー」と言います。逆に何かあったときに「この人のせい」「これのせい」と自分以外の原因(両岸の話で出た外部の原因)ばかり見ているといつまでも輪廻は続きます。苦の内外(内側は心、外側は環境)の原因のうち外側しか見ていないからです。これでは内側、つまり心の原因(煩悩)が丸々残るので、ちょっと出来事がある度に一々感情的になる事になり、目一杯苦が生じます。

 ヴィパッサナーが上達してくると、常に心に対して注意深くなってきます。そして感情が発生しそうになっても素早くそれを予防、駄目でもすぐに消火できる様になります。この様に常に心に注意深くしていることを、サティを働かせると言います。サティは訓練でどんどん鋭く素早くなり、そのうち一々意識しなくても常にサティが自動的に働く様になります。サティが正しく働いて集中力があることをサマーディが生じると言います。サマーディは普通に生きて行く上で必要な集中力であり、誰にでもあります。常に訓練していればサティとサマーディはどんどん強くなってきます。武術の達人が一々意識しなくても殺気に自動的に反応できると言う様な話もほとんど同じ理屈だと考えれば、この武術の達人の話もおそらく本当なのでしょう。

*1:この答えはここでは宿題とします。

*2:逆に普段から嫌っている人なら怒りは三倍増というところでしょうか

怒りを抑える実践方法(その1)

 怒っている状態は幸福な訳がなく、実際には地獄で、生きている間に死人となっています。

 しかしそうは言っても怒りの感情と言うのはかなり素早いので、中々発生を抑える事が難しいものです。それに一度怒ってしまうと中々腹の虫が収まらない 、と言う人も少なくないと思います。かく言う私も以前は相当カッカ来やすい質で、心の中は瞬間湯沸かし器のようなものでした。

 そんな状態でしたが、地道に心の中の怒りの発生プロセスを見続けて改める事で、実際に怒りをほとんど全くと言って良い位まで生じない様にする事は出来ます。これは私の実体験です。ここで紹介する方法が必ず万人に効果があると保証は出来ないかもしれませんが、試してみる価値はあると思います。

 例えばエレベーターで一階から五階に上がりたいときに、エレベーターが一階にいて自分が乗ろうとする直前にドアが閉まってしまったとします。その時誰かが乗っていてわざとドアを閉めたのならその人に直接怒りを感じますし、上の階の人がエレベーターを呼んだとしたら止まった階の数字を見てその階にいる見えない人を恨みます。もしかしたら降りて来るときにすれ違うかもしれません。心はイライラか、怒りでグラグラ煮えたぎっていて、実際に降りて来たら犯人(実際には犯人でも何でもありません、単なる逆恨みです)とすれ違うときに心の中で毒付きます。

 しばらくするとあ~腹立ったとなって忘れてしまい、また同じ様に何かで怒ってしょっちゅう地獄に堕ちているのが普通の、大多数の人ではないでしょうか。

 ブッダの見地から見ればこの様に怒る度にその人は生老死を経ているので、ダンマを知らない、あるいは知っていても実践しない人はこの人生で何回輪廻しているか想像もつきません。 (次回に続く)

 

肉体の生存欲求と性欲、怒りの発生

 人間だけでなく生物は自分の肉体を生き残らせることに極めて執着すると同時に、確実に迎える死に対応する目的として遺伝子を残すこと、つまり子孫を残すことにも執着します。したがって、生き残る事の次に強い執着は性に関する事になります。あり得ない仮定なのであまり意味はないですが、もし生物が先天的に死なないのならば*1性欲はおそらく存在しないでしょう。あってもこれほど強い衝動ではあり得ません。

 男性がもっとも振り捨て難い執着は美しい女性との性交です。しかし性交できるなら、多少好みの容姿でなくても構わないと言う人は多いと思います。これらの理由は以下です。美人との性交欲求は奇形の子孫を残さない目的に、とにかく性交したい欲求は沢山子孫を残す目的にそれぞれ基づいています。短絡的に見れば男性はなるべく沢山の子供を設ける事が遺伝子の保存に有利なので、欲のほとんどが性行為に向きます。

 女性にも決して弱いとは言えない性交への欲望がありますが、通常は男性の様に性交さえ出来れば良い、沢山の相手と性交したいと言う様な方向ではありません。代わりに強く生じるのが見栄と住居に対しての執着です。女性は生物的に出産可能な子供の数に制限があるので、男性と違い沢山の異性と性交することが必ずしも遺伝子の保存に有利にならないからです。なので性のパートナーに関しては、男性より女性の方が当然選定基準が厳しくなります。つまり女性は子供の数より質を問題にします。この様に女性は少しでも優秀な子を産む方が遺伝子の保存には有利なので、そのために同性内で優位に立ち、優秀な男性と性交して安全な環境で子育てをする要求が生じます。

 以上の理由から女性は同性間の優位確保の欲望が生じ、そこから派生する見栄と、子育ての環境である住居に対する執着が強くなる傾向があります。妊娠と母乳のために食に対する執着も男性より強くなります。結果として着飾ったりする他、とにかく容姿に気を配り、配偶者の職業や地位、子供の学歴などが気になり、それらが良いものなら自慢したくなり、悪いものなら他者に嫉妬します*2。また、食事に関しても欲求は強く、高カロリーな甘いものなどを好みます。

 これらは一般的な傾向を述べたものですが、欲望と言うのは満足の威力でまた強くなる際限のないものなので、各個の状況によって興味の対象が変化していくことはあります。例えばフェティシズムや食事に対する異常な関心、各種の収集癖などもこうした欲望の分化、発現の有り様の一端です。実際、欲望の変化の様相にきりはなく、これらの欲望の種類を細かく分類することにあまり意味はないと見えてきます。要は身勝手な、客観的に見て必要のない異常な欲が強い執着の原因となって、精神病院に通う事になったり、時には自分も含めて人を殺すまでに到ります。これが苦の海を回遊するとか、苦を楽と思って掌握するなどと言われる状態です。

 逆に苦を減らし、最終的には消滅させるためには、この様な心が欲望に支配された状態が害にしかならない事が見えれば良いのです。害を見て欲を減らせれば、この欲はあれだ、これだと分類する必要はありません。

 しかし一般的にはこのような性に関する欲望は、自然な成り行きに従っていればほとんど全ての人にかなり強い衝動として生じます。なので、どのような原因があってそれらの欲望が生じるかを知っておくことに利益はあります。

 両性とも個体の生存や性的な欲望から生じる執着を捨てる事は中々出来ないので、これらの目的を妨害する存在、つまり邪魔者や敵対者への怒りの感情を捨てる事もまた中々出来ません。個体の都合に悪い存在は攻撃して排除する方が、動物の個体としては手っ取り早く利益があるからです。

 また、一部の人は怒ることを正しい事だとすら思っていますので、心が感情に支配された状態が地獄であると知ることが出来ません。この様にして、貪欲、怒り(瞋恚:しんに)、無知(愚痴)は循環して際限なく膨れ上がるので、無常のものに執着する事が原因で生じる苦から逃れる事が出来ません。ブッダのダンマはこういった苦の発生の連鎖を逃れることを教えるものです。

*1:アメーバの様な単細胞生物は分裂時に遺伝子が完全にコピーされるため寿命はなく、条件が良ければ不老不死です。しかし、同じ個体と言うことは皆同じ原因で死ぬので、致命的な環境が生じるとひとつの要因、例えば伝染病などで簡単に全滅する危険性があります。

*2:性欲に関してはこちらこちらもご覧になってみてください

八正道(苦集滅道のうちの「道」)

 ブッダは苦を無くすために、事あるごとにこの八正道(八支正道)を説いています。八正道は四聖諦の苦集滅道のうちの「道」である滅苦の方法です。
これは、下記に示す八項目からなります。
1.正しい見解(サンマーディッティ)
2.正しい志(サンマーサンカッパ)
3.正しい言葉(サンマーヴァーチャー)
4.正しい行動(サンマーカンマントー)
5.正しい生活(サンマーアーチウォー)
6.正しい努力(サンマーワーヤーノー)
7.正しい理性、注意(サンマーサティ)
8.正しい三昧、集中(サンマーサマーディ)

 八つの項目の正しさなので八つの正しい実践項目と見た方がわかりやすいかもしれません。少し仏教を学んだ人なら、暗記していて暗唱できる人も多いでしょう。しかし、ダンマは見る深さが大切です。オウムや九官鳥の様にただ唱えるだけではダンマにはなりません。八つの項目の示すことはどのような内容なのかを見て行きましょう。

 この八つの項目は三つのグループに分けることが出来ます。

 見解、智慧の部分
1と2、つまり正しい見解と正しい志です。見解が正しくなければ、つまりダンマでなければ志も正しくなりません。サンカッパを考えと訳すと行(サンカーラ)と誤解されるおそれもありますし、正しい考えであるところの「志」や「望み」と訳した方が良いでしょう。以前述べた様に正しい望みは欲望ではありません。見解が正しければ望むこと、志も正しくなります。

 戒の部分
3~5までが戒律の部分になります。つまり、正しい見解を持っている人は3のように言葉遣いも正しくします。当然「てめぇ」とか「俺」とか「お前」みたいな言葉遣いをしません。また、言葉遣いを綺麗にするだけでなく、4のように行動も正しくします。ずるをしたり、隠し事、あるいは他者に加害するようなことをしません。そのように言動を正しく保つこと(3と4)が5の正しい生活を送ることに繋がります。

 定の部分
6~8の項目が一般には定と呼ばれる部分に相当します。6は字のごとくダンマを実践する努力を保つことです。努力が無ければすぐ無明から生じる煩悩の欲に負けてお酒を飲み、性的な事に溺れ、欲にだらしない人間になります。そうならないためには努力が必要です。7のサティはよく「気づき」と訳されますが、サティは気づくだけではありません。車に轢かれそうになった人が、「あ、車に轢かれそうだ。」と気づくだけならそのまま轢かれます。当然、正しい理性があれば轢かれる事を回避します。ただ気づくだけでは何もしなくても良いと誤解されかねません。正しいサティというのは油断せず状況を良く観察して、正しい判断をすることです。つまりこれは理性と言えます。サティを働かすというのは理性を働かすことです。8のサマーディは一般には正定と訳されているようですが、そのまま三昧あるいは集中と訳した方が意味が通じやすいと思います。サマーディというのは三昧と訳される様に、心が集中して安定三昧している、つまり心が常に正しい状態に安定している状態です。何も特別な技法が必要なことではありません。大人なら誰でも必要に応じて集中して安定した状態、つまり三昧にできます。

以下後日追加分
通常の教えでは戒→定→慧となっています。これも正しい順番です。八正道全てに先行する先鋒の役割を果たす正しい見解は通常悪いものとして扱われる「見解(ディッティ)」として述べられています。これはどういう事かと言うと、サマーディに到っていない状態からいきなり智慧(パンニャー)は生じないので、いきなり納得できなくてもまず知識として「何が正しいのか」を知る必要があると言う事です。
知識として正しい見解を持って正しい言動をしていくと(戒)、正しい三昧(定)に到り、智慧(慧)が生じて来ます。これは更に正しい見解の精度を上げるので、智慧が正しい戒を導き、戒の実践が定を生じさせ、更に智慧が生じます。八正道はこの様な正しさへの好循環を生じさせる実践項目になっています。

後日追加分ここまで

 心が正しい状態に安定しているとはどういうことでしょう。これはつまり「悟り」の状態に他なりません。正しいサマーディ、というのは要するに目的とするゴールであると言えます。他の7つは全てこのサンマーサマーディを得るためのものだと言えます。サンマーサマーディが完璧であれば正しい智(サンマーニャーナ)と正しい解脱(サンマーヴィムッティ)が十分に生じ、本当に最終解脱、つまり阿羅漢(アラハン:最終解脱者)となります。

 サティやサマーディと聞くと何か非常に特別なことの様に感じますが、少なくとも大人になれば誰でもサティやサマーディはあります。サティとサマーディが無ければスパゲッティを食べるとき麺を鼻の穴に入れることになります。自動車を運転するときにハンドルを握らず、アクセルとブレーキを間違えて踏みます。文字も正しく書けません。普通に気をつけていられれば実際にはそのようなことにはなりませんから、サティとサマーディは誰でも皆自然に使っているものです。八正道ではこれらをダンマで正しく行うことを意味しています。

 また、全ての項目は常に1の正しい見解に導かれていると見ることが出来ます。いくら頑張っても、見解が正しくなければ志はもちろんの事、言葉も行動も生活も、努力も理性も集中力も正しい方向には向きません。しかしいきなり完璧な見解を持つことは難しいかもしれません。でも大丈夫です。この八項目を繰り返し意識して言動を正しくしていくと、自然と1の正しい見解の精度も上がってきます。そうすると付随する2~8の七項目の精度も上がり、また1の見解の精度が上がると言うように、心、見解がどんどん正しい方向に向かう良い循環が出来てきます。こうなると「自分」と言う間違った感覚はどんどん薄れてきて、それに伴い欲望も執着もどんどん減ってきます。両者の発生源となる間違った心の状態である「身勝手」「わがまま」が減るからです。

 これは欲にかられて喜びを求め、満足すると更に強い喜びを求めてどんどん欲望と執着が強くなる悪循環と全く正反対のプロセスになっています。

 ブッダの言葉に四聖諦は常に世俗の考え(世俗諦)と反対の方向を向くとありますが、この八正道も四聖諦の道(滅苦の方法)ですから当然欲の増大する方向である世俗諦とは反対を向く訳です。

 以上を見てみると八正道とは特別な訓練をして技術を要する様なことは何もなく、常に心掛けを正しく保って欲に負けず、心を感情に支配されずに正しい言動、生活をする事を意味することだと見えてくるのではないでしょうか。

 まさにこれが苦を滅する方法であり、ブッダがはっきりと「比丘(出家僧)がこの八つの道を守って暮らすなら阿羅漢が途絶える事はない」と断言しています。我々もこの八つの道を少しでも高い精度で守って暮らせれば、それだけ苦は減ると言えるでしょう。

四つの聖向聖果(滅苦の様相)、特に最初の段階である預流者

 今回は苦が減った人とはどの様な人なのか、特に最初の解脱の段階である預流者について見ていきます。
大多数の人が属する、喜びに満足している人の世界である世間地(世俗の境地、ローギアブーミ)があります。そこから解脱の方向、つまり出世間地(世俗を超えた境地、ローグッタラブーミ)に向かう人は四つの種類に分類されます。

 つまり、預流者、一来者、不還者、阿羅漢です。預流者になろうとしている状態を預流向と言い、それを達成した聖果を預流果と言います。預流果に到った人が預流者です。

 一来向と一来果、不還向と不還果、阿羅漢向と阿羅漢果も同様です。解脱を目指す場合まずは預流果を達成することを目指します。

 預流果の達成、つまり預流者になる条件は三つの煩悩を捨てる事です。三つの煩悩とはすなわち有身見(この心身は自分であるとか、自分自身があると思い込む見方)、疑(滅苦の実現を疑うこと)、戒禁取(滅苦に繋がらない修行を正しい方法と思い込むこと)の三種です。
 
 この中で最初の有身見は、自分の容姿や運動能力、知能等に自信のある人は捨てるのが特に困難な煩悩です。大好きな「自分の身体、頭脳」が無常であり自分自身ではないと真実ありのままに見て納得する必要があります。例えば、有身見がない人は身体の一部を欠損しても特に嘆き続けるべきでない事を知っています。この煩悩を捨てることが容易くないことはお分かりになるかと思います。

 二番目の疑は滅苦の実践をしていて捨てるのが難しい怒りや性欲を中々捨てられず、「本当に滅苦なんて出来るのかな?」と疑うことで、滅苦の実践の間には良く生じ得る煩悩です。良く学んでいなければ「身体の感覚は無くならないのなら苦は減らないでしょう?」などと考えます。ブッダの教えは身体の感覚を消すのではなく、心で掴む苦を減らす教えです。この辺りの重要ポイントを良く押さえて学ぶ事も「疑」の煩悩を捨てるのに大切な点です。

 意外と難しいのは三番目の戒禁取かもしれません。仏像を拝んだり、お経を歌ったり、お線香を上げたり、あらゆる種類のお祈り、儀礼儀式などの効果の無い迷信、無意味なものを正しいと信じ込まないと言うのは、無明が強い間は結構困難な事なのです。

 つまり預流果と言うのは実践はまだ出来ない段階だとしても、知識の上だけでもブッダの教えが正しいと考えられるだけの智慧が生じた人と言う事も出来ます。ダンマ、勝義諦が見えるので「六根の喜びは苦である」とか「八正道は滅苦の方法である」と言った事が理解出来ています。完璧な実践はまだまだ出来ない段階ですが、見解だけは完璧に正しくなっているので、間違った方向、つまり世俗諦に傾いて行くことはもうありません。これは涅槃への流れに乗ったと言えるので、流れに傾いた人、涅槃の聖果に預かった人と言う意味で預流者と呼ばれます。

 では僧なら皆預流者なのでしょうか?私の知っているだけでも、僧侶(お坊さん)なのに平気でお経を歌う様にあげている人は少なくありません。これは日本だけに限った話ではありません。お経は歌って音楽にすると歌う本人、聞く人両方で耳の感覚に喜ぶ人が生じて苦になる事と、仏教が音楽を肯定することになる等の理由で、やってはいけないのです。歌う様に経をあげる事はブッダが存命の頃から五つの理由(歌っている本人が喜ぶ、聞いている人が喜ぶ、仏教が音楽を肯定すると誤解される、サマーディが崩れる、悪い前例が出来るの五つで、基本である六根の喜びは「苦」と言う教えに矛盾します。)を上げて禁止しています。正しい見解があるならこの様な事はしない筈です。

 他にも例えば仏像や線香などは典型的な戒禁取です。仏教なら仏像も線香も当たり前と思っている人も多いかと思いますが、これらはブッダの教えに沿うとは言えません。仏像や線香に明らかな滅苦の効果はないからです。悟りに繋がらない方法は戒禁取と呼ばれ、この例の様に戒禁取も今や仏教界で溢れかえっています。「効果がある」と信じきっているものが、実は効果がないのだと自分で知ることはとても難しいので、戒禁取も捨てるのがかなり困難な煩悩と言えます。

 これら三つの煩悩を捨てる事が出来ると自動的に破滅に繋がるレベルの貪欲、破滅に繋がるレベルの怒り、破滅に繋がるレベルの愚痴(無知)を捨てる事が出来ます。

 言い換えれば預流者は六つのものを捨てた人と言う事もできます。他にも預流者は「六根(五感と心)を知る人」、「触を知る人」、「八正道を知る人」などとも言われます。滅苦に関する見解が完璧になっているからです。預流者は涅槃へ到るのが確実になりますから、困難ではありますがブッダの教えを学ぶならまずは預流果を目指したいものです。

十二縁起の形で見る苦の集と滅

 喜びの受を凄く欲しがること、つまり渇望が苦の原因です。渇望してもし喜びの受を享受できると満足の威力でまた渇望します。これはずっと繰り返され、繰り返すほどに症状は酷くなります。お金持ちほどお金に貪欲になる様なものです。今回は苦の原因と消滅の様相を以前述べた十二縁起の形で見てみます。

 つまり、以前縁起で説明したように 無明が縁で行が生じ、 行が縁で識が生じ、 識が縁で名形が生じ、 名形が縁で六処入が生じ、 六処入が縁で触が生じ、 触が縁で受が生じ、 受が縁で渇望が生じ、 渇望が縁で執着が生じ、 執着が縁で界(有)が生じ、 界が縁で生が生じ、 生が縁で老死、その他あらゆる苦の山が生じます。 これが苦の発生の仕組み、苦の原因です。

逆に見れば、 無明が消滅すれば行は生じず、 行が消滅すれば識は生じず、 識が消滅すれば名形は生じず、 名形が消滅すれば六処入は生じず、 六処入が消滅すれば触は生じず、 触が消滅すれば受は生じず、 受が消滅すれば渇望は生じず、 渇望が消滅すれば執着は生じず、 執着が消滅すれば界(有)は生じず、 界が消滅すれば生は生じず、 生が消滅すれば苦の山は生じません。

 これが苦の消滅の様子です。

渇望(欲)による苦の発生原因と、苦の消滅の様相

 これまで何故苦が生じるかは何回かに渡って説明してきました。特に内側の原因である受(感覚)に対する渇望があると、必ず苦になります。

 例えばある男性が大層惚れ込んでいる女性が他の男性と二人でいて、楽しそうに話してクスクス笑っているのを見ればその惚れている男性は嫉妬で大変苦しい思いをする事になります。
ではその男性が「この苦しみは彼女に惚れ込んでいる渇望の状態が原因だ。惚れていなければこの様な苦しみは生じない。」と正しく苦の原因を見て、彼女への恋慕の思いをきっぱり捨てた後、その男性が再び彼女が他の男性と二人でいて、楽しそうに話してクスクス笑っているのを見て苦しむでしょうか?
その男性が彼女への恋慕の思い、つまり渇望をきっぱり捨てているのなら、彼が以前味わった苦しみは当然生じません。

 この例と同様に、目耳鼻舌体心の六処入(六根)のどれについても、好ましい形音香味触考を渇望するなら、必ず苦しみが生じます。

 しかしもしその様な渇望をきっぱり捨ててしまえば、どんな種類の苦も生じません。これが、苦の原因と苦の消滅の様相です。