一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

苦とは(四聖諦)

 一度ここで苦についてその分類をしてみましょう。ブッダは苦から逃れるためには四聖諦を必ず知る必要があると言っています。四聖諦とは苦集滅道の四つです。「苦」は苦とは何か、「集」は苦の原因は何か、「滅」は苦の消滅はどのようか、「道」は苦を消滅させる方法です。日本で広く親しまれている般若心経では苦集滅道、すなわち四聖諦も無いよと言われている様ですが、四聖諦を知らなければ苦を無くすことはできません。そうブッダが断言していますし、私もそう思います。今回はこの四聖諦のうち最初の「苦」について見てみます。「苦」は次のように分類されます。

 以下はタイの比丘であるターン・プッタタート著作、タンマダー氏訳「ブッダヴァチャナの四聖諦」を元にさせて頂いております。

「生」
 生まれること、誕生すること、(母の胎内に)降りて行くこと、発生すること、突然生まれること、すべての蘊が発現すること、その生き物の分類の動物の、いろんな処入があることを、生と言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項

「老」
 老いること、呆けること、歯が抜けること、白髪になり皮膚にしわがよること、その動物の部類の六根が衰え、余命が衰えることで、これを老いと言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項

「病」
 病むこと、体の機能が正常に働かないこと、健康でないこと、正しい状態で維持されていないこと、何らかの健全な状態から変化して健全でない状態になること。これを病と言います。
 
「死」
 死ぬこと、移動すること、崩壊して無くなること、消滅、命が終わること、死ぬこと、すべての蘊の崩壊、その生き物の体を捨てること。これを死と言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項

「悲しみ」
 悲しみ、憂い、何らかの災難に遭った人の、何らかの苦の衝撃を受けた人の悲しみ、憂悶。これを悲しみと言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項

「嘆き」
 何らかの苦である何らかの災難に遭った人の嘆き悲しみ、愚痴、嘆き悲しむこと、呆けて愚痴を言うこと、嘆き悲しむ人であること、愚痴を言う人であることです。これを嘆きと言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項

「体の苦」
 体の成り行きである耐えがたいこと、体の成り行きである安楽でない(病気。異常)こと、耐え難いこと、体の刺激から生じる安楽でない感覚。これを体の苦と言います。
長部マハヴァッガ 10巻342頁295項

「心の苦」
 心の成り行きである耐え難いこと、心の成り行きである安楽でないこと、耐え難いこと、心の刺激から生じる安楽でない感覚。これを心の苦と言います。長部マハヴァッガ 10巻342頁2955項

「憂い」
 何らかの苦、何らかの災難に遭遇した人の憂鬱、不満、悶々とした状態、悩みのある状態。これを憂いと言います。長部マハヴァッガ 10巻342頁2955項

「愛していないものと会うこと(怨憎会苦)」
 その人にある望まない、欲しくない、満足できない形・音・臭・味・触、あるいは利益を期待しない、支援を期待しない、安寧を願わない、その人との絆の安全を願わない人たち、その感情、あるいはそれらの人と一緒に行かねばならないこと、一緒に来なければならないこと、一緒に暮らさなければならないこと、混じらなければならないこと。これを嫌いなものと一緒にいることは苦と言います。長部マハヴァッガ 10巻342頁295項

「愛するものと離れること(愛別離苦)」
 その人にとって望ましい、欲しくなる、満足する形・音・臭・味・触、あるいは利益を期待し、支援を期待し、安寧を願い、その人との絆の安全を願う人たち、つまり両親や兄弟、友人、相談役、血族などと一緒に行かないこと、一緒にいないこと、一緒に住まないこと、その人あるいはその感情と一緒にいないこと。これを愛するものと離れることは苦と言います。

「望んで叶わないこと(求不得苦)」
 当たり前に生がある生き物に「ああ、私たちは、当たり前のように生がある人になりたくない。そして生が私たちの所へ来なければなあ」と、当然このような望みが生まれます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、望んで叶わないのは苦と言います。
 当たり前に老いがある生き物に、当然「ああ、私たちは当たり前に老いのない人になりたい。そして老いが私に来なければなあ」と、このような望みが生じます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、望んで得られないのは苦と言います。
 病気が当たり前にある生き物に、当然「ああ、私たちは病気が当たり前にない人になりたいなあ。そして老いが私に来なければなあ」と、このような願いが生じます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、何かを望んで得られないのは苦と言います。
 当たり前に死がある生き物に、当然「ああ、私たちは当たり前に死のない人になりたい。そして死が私に来なければなあ」と、このような望みが生じます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、望んで得られないのは苦と言います。

 悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みがあるのが当たり前の生き物に、当然「ああ私に、悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みが当たり前にない人になりたい。そして悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みが私に訪れなければなあ」という望みが生まれます。これは生き物が望んで叶う訳ではありません。これも望んで叶わないのは苦、と言います。長部マハヴァッガ 10巻343頁295項

「五取蘊苦(五蘊盛苦*1)」
 五取蘊、つまりこれらは執着の基盤である蘊、つまり形、執着の基盤である蘊、つまり受、執着の基盤である蘊、つまり想、執着の基盤である蘊、つまり行、執着の基盤である蘊、つまり識、これらを、「要するに五取蘊は苦」と言います。長部マハヴァッガ 10巻343頁295項

 現代の分類では上記に述べられた苦のうち、生老病死を四苦、それに加えて怨憎会苦愛別離苦求不得苦、五取蘊苦の四つを合わせて四苦八苦としていますが、最後の五取蘊苦は前の七つを包含していますので、いくつかの苦のうちのひとつの苦に分類するのは論理としてどうかと思います。

 五取蘊苦とは、五蘊(形受想行識)を「自分」「自分のもの」と間違って思い込むことで生じる全ての苦の源です。五取蘊苦が消滅すれば、他の全ての苦は消滅します。

*1:五蘊盛苦という訳は意味が良く伝わらないので、ここでは原語の意味そのままに五取蘊苦としています

両岸の話、触(その2)

 前回は内外(内側二つ、外側一つ)の原因が全て揃って苦が生じる事を説明しました。今回は具体的に内外の原因の例を見てみましょう。

 例えば自分にとって凄く面倒で嫌な事を頼まれたり、自分が良いと思っているのとは違う方法で物事を進められたりすると、大変不快に感じます。もっと具体的に言えば、風呂掃除したくないときに風呂掃除を頼まれれば、「風呂なんて一度位洗わなくても大丈夫だよ。」と言ったりします。しかし、無明(事実が見えないこと)に隠された心を見てみると、「(本当はやりたくないから、やらない言い訳をしよう、怠慢な自分を正当化しよう、もし誰か掃除してくれるなら風呂は綺麗な方が良い。)」と言う様に極めて身勝手な考えが潜んでいます。

 しかもたちの悪い事に、普通の人はこの隠された自分の考えが見えません。自分の中、何よりも一番近い所にあるのに見えないのです。無明と言う無明が覆い隠しているからです。これが怒りや嫌悪、怠慢、強欲と言ったあらゆる苦の温床になっています。無明、煩悩は悪質な結婚詐欺師の様なもので、味方のふりをしてあらゆる害をもたらします。傍から見たら何故騙されるのか不思議に思える詐欺事件は、被害者が詐欺師を味方だと思い込むから生じます。煩悩は身勝手を助長するので味方に見える所が本当に悪質な点です。

 具体例に戻ります。仕事で相手から自分の気に入らない方法を提案されたりすると、「なんだ!そんなやり方で上手く行くものか!(お前は馬鹿で無能なんだから、俺様の言う通りにしてれば良いんだよ!!)」などとそれこそ怒り狂います。実はその方法の方が色々良い面があったとしても、自分の都合の視点でしか見られないので理解できません。こう言う人達は本当に普通にどこにでも見かける事が出来ます。

 この種の無明から生じる感情に支配されていれば、目一杯苦です。特に、怒っている人は煩悩に完全に支配されていますので、人間ではありません。死人であり地獄の住人です。以前人は肉体が生きている間に何度も輪廻を繰り返していると説明したと思いますが、この様に生きている間に死んで地獄に堕ちたりもしています。

 何故死んでいる事が解らないかと言うと、普通の人は肉体の活動が止まって棺桶に入る事しか死を知らないからです。ブッダの教え(ブッダダンマ)を知らなければ、私もこの事実を肉体が棺桶に入るまで(入っても)知らなかったでしょう。

 身勝手な欲、つまり煩悩にかられて何かが欲しくて欲しくてたまらない時なども地獄です。ブッダの言葉には煩悩はたまに訪れる(いつも煩悩に支配されていたら狂って死んでしまいます。)とありますが、煩悩に完全に支配されれば、その都度死んでいます。

 しかも、日常的に良く怒る人と言うのは、目一杯我があり、身勝手で、怒りが内外の共同製作物である事を知りません。なので、前回のゴキブリの話の様に、悪い事をいつも外部の原因のせいにばかりしていて心から反省する事がありません。こう言う状態は大変な苦でありながら苦の原因を知らないので、焦熱地獄に例えられる様な悪循環です。

 この種の状態は大変な害があり、一刻も早くこの様な生死を繰り返して行く循環を抜け出す事が大切です。ブッダは教えの初期には弟子をサマナ(修行僧)と呼んでいた様ですが、後に比丘(びく)と呼んでいます。比丘とは輪廻の害が見える人、と言う意味だそうです。良く映画などで恋人同士が「生まれ変わっても、また一緒になろうね。」などと言うセリフが出てきたりしますが、輪廻は無常の循環に組み込まれた状態であり、害ばかりでちっとも素晴らしい事ではないのです。一時は熱愛状態の恋人同士が、少しして別れる事も良くあります。芸能界などは結婚して数年で離婚するのがまるで話題作りの義務なのではないかと思うほどです。これは、二人のうちどちらかあるいは両方が相手を好きな状態から、相手を好きではない状態に「生まれ変わった」のが原因です。これも無常であり、輪廻です。

 無常な状態は、落ち着きがなく、目まぐるしく変化していて、熱く燃えているので、感覚として苦を感じられなくても結局は苦です。燃え盛る炎をわざわざ抱きかかえる物好きな人はあまりいませんが、欲望の対象は物理的な火がついていなくても、無常の見えない炎で熱く燃えているので、掌握すれば苦になると言う道理です。

 世の中は無常なので人間の力では外部の状態を思い通りに制御する事はできません。したがって苦は内部の原因、特に間違った身勝手な心から生じる愚かな触~受・・・苦のルートを防ぐ事でしか減らせません。

 まさに苦かどうかは心がけ次第と言うことです。

両岸の話、触(その1)

 前回の縁起は少し難しかったかもしれませんが、苦を減らすためにはとても重要な話です。今回はその縁起(因果)の中で特に重要な触と受(感覚)について見て行きたいと思います。
 触とは何でしょうか。触は目耳鼻舌体心(六処入、六根つまり物理、精神的内部要因)に、それらの対象となる光音臭味接考(物理、精神的外部要因)が触れ、それを各六つの識(眼識、耳識、、、意識)で感じたときに生じるものです。内、外、識の3つが無いと触は生じません。もう少しわかりやすく言うと、例えば目(内)に何らかの光/映像(外)が映り、それを心で認識(識)すると初めてその映像を意味のあるものとして知覚する(受が生じる)ことが出来るという話です。
 具体例を挙げてみます。今日でも昨日でも良いです。外に出て目で見えた人の中で、知らない人の最初から三番目までの人の性別を挙げてみてください。あるいは、ランダムな数十個の数字が羅列された紙を見て、一瞬でそれらの数字を全て覚えられるでしょうか。よほど特殊な職業かサヴァン症候群のような何らかの疾患でもない限り、無理だと思います。何が言いたいかと言うと、人間は映像(この場合は知らない人)が目に映っただけではその映像の意味を認識できません。眼の認識(眼識)の働きがあって初めて「これは何の形だ(何色だ)、あれは何の形だ(何色だ)、見えたものは何々だ。」と知覚することが出来ます。
 これを説明したのが「触」の話です。目だけでなく、耳鼻舌体心でも全く同じメカニズムで知覚する働きがあります。この蝕が生じるとほぼ同時に体内で自動的に感覚である「受」が発生します。これまでに何度も害を述べてきた喜びの「受」もこの受の一種です。
 受とは何でしょうか。目について言えば、「映像」と知覚した瞬間に「この映像は好きだ。好ましい。」または「この映像は嫌いだ、厭わしい。」あるいは「この映像は好きでも嫌いでもない。」という感覚が生じます。これが受です。目だけでなく、耳鼻舌体心でも全く同じメカニズムで「受」が生じます。いずれにしてもこの「受」を「好きだ」と思えば喜びの受(幸受)で、「嫌いだ」と思えば不幸の受(苦受)で、「好きでも嫌いでもない」と思えば不幸不苦受になります(受は分類の仕方によって何通りもの分類、例えば108通りなどが可能ですが、ここではこの三種の受で規定します)。ここで「好き」とか「嫌い」とか「好きでも嫌いでもない」という感覚を自分のものと思えば、幸受ならそれをまた求める執着に繋がり苦になります。苦受ならそれを自分の苦だと思い込んで心で激しく苦しみます。不幸不苦受も自分のものと思うと無常で変化することによって失うので結局苦に繋がります。
 何を長々と説明しているのか解りにくいかもしれませんが、ここで重要な事は、無常である「受」を「自分のもの」と思ってしまうと、前回の縁起で述べた様に「受」~・・・~「生」~「老病死その他あらゆる苦」の発生までベルトコンベアの様に確定した苦の流れが生じてしまいます。
 読む人によっては何を言っているのか解らないか、単なる屁理屈にしか見えないかもしれません。しかしこれが真実です。ここで「受」からひとつ戻って「触」について考えてみます。触は内部のものである目耳鼻舌体心に、それらの対象となる光音臭味接考が触れることで生じます。つまり触には内部の原因と、外部の原因があるという事です。例えばゴキブリが部屋に出たら大体の人は不快、つまり苦と思います。このときこの苦の原因は何でしょうか。「そんな解りきったこと聞いてくれるな、ゴキブリに決まってるだろう」と言わないで欲しいと思います。上に説明した様に、この場合ゴキブリの形が目に映って、眼識によって知覚し、「この映像は嫌いだ」と思ったことで(厳密にはゴキブリという考えによる心の受も苦受になっているでしょう)苦受が生じたのです。これを分類すると、ゴキブリという外部の原因と、目と眼識という内部の原因が全て揃って苦受が発生しました。縁起(因果)の法則とは「原因が全て揃ってそれが縁になり結果が生じる。」と言うものです。特に、「内部と外部の原因が全て揃って触が生じて、受が生じ、欲や執着を経て苦の発生につながる。」という苦の発生メカニズムはとても大切な点です。この触が内外の原因から生じることをブッダは川の両岸に例えています。他にも此岸(俗世)と彼岸(涅槃)の様な川の両岸の例えもあります。
 「内外の原因が揃って苦になるなら、内部の方の原因である目を潰せば目による受で生じる苦はなくなる筈だ。」と考えた方は中々鋭いです。確かに目がなければ目による苦は生じません。しかし、目を潰すのは自分のものではない身体を害する身勝手な行為なので、その方法は使えません。それに現実的に誰もやりたくないでしょう。実際、そんなことをしなくても苦受を避ける方法はあります。何故苦が生じるのかと言えばそもそも最初の原因の「無明(無知)」があるからなのですが、いきなり自分の無知を無くせと言われてもそれは不可能です。そこでブッダは「受」を「これは無常のものだ、つまりこれは自分のものではない、自分の感覚として受け取るべきでない」と正しく見る事を勧めています。このように受を真実ありのままに正しく見られるようになれば、苦のベルトコンベアの流れは生じないので、心で受け取る苦は無くなると見ることができます。これを「受で止める」と言います。

縁起(原因と結果:因果の法則)

 これまで述べて来たように、人は無明(無知)が原因で真実を明らかに見られないので、煩悩に騙されて欲に目がくらんでいます。ブッダは苦しみを無くすために、苦しみが何故発生するのかと言う原因を探りました。例えば病気が発生するのを防ぎたい場合に、その病気の発生原因を調べる必要があるのと全く同じ理屈です。
 ブッダの示す教えは自然界に生じる現象を極めて客観的に観察して述べられているので、そう言う意味では現代科学と同じ方法論が用いられています。
 苦の原因の話に戻ります。少し難しいですがブッダは熟慮の結果、次の順序で苦が発生していると明らかに見えたと伝わっています。これを縁起と言います。世間でよく言う「縁起が良い」「縁起が悪い」というのは仏教用語ですが、この現代で使われる意味は下記の本来の縁起とは少々異なっています。
縁起とはすなわち、
無明が原因で行(形成力)が生じ、
行が原因で識が生じ、
識が原因で名形(心身)が生じ
名形が原因で六処(六根:五感と心)が生じ、
六処(六根)が原因で触が生じ、
触が原因で受が生じ、
受が原因で渇望(欲)が生じ、
渇望が原因で執着が生じ、
執着が原因で有(界)が生じ、
有が原因で生が生じ、
生が原因で老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みが揃って生じます。
全ての苦の塊は、この様に生じています。
専門用語が多くて解りにくいかも知れませんので、現時点で要点を抜き出すと、「無明が原因で煩悩の感覚で六根から生じる受(感覚)を味わうと、それを凄く欲しいと思って(渇望)、執着して主観で世界(有/界)を見るので間違って「(身勝手な)自分」と言うものが生まれ、無常による変化で老死、嘆き悲しみなどを味わう事になる、と言うことです。
 もう少しまとめると、どんなものでも「自分のもの」と愚かに掌握すれば、無常で維持できずに失って苦しむと言うことです。これを苦の発生と言います。
 しかしこれは逆に考えれば、煩悩に支配されて愚かな見方で物事を捉えなければ、苦は発生しないとも言えるのです。これを苦の消滅と言います。
つまり
生が消滅すれば老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みは生じません。
有が消滅すれば生は生じません。
執着が消滅すれば有(界)は生じません。
渇望が消滅すれば執着は生じません。
受が消滅すれば渇望(欲)は生じません。
触が消滅すれば受は生じません。
六処(六根)が消滅すれば触は生じません。
名形が消滅すれば六処(六根:五感と心)は生じません。
識が消滅すれば名形(心身)は生じません。
行が消滅すれば識は生じません。
無明が消滅すれば行(形成力)は生じません。
この様にして縁起の流れは消滅するので、苦は消滅します。
苦に発生と消滅があると言うのは仏教において大変重要な教えで、これが見えなければブッダは悟ったとは言わなかった、とすら言われています。それほど縁起の教えは大切なのです。
 縁起の話は心の中で生じる因果を示していますが、世の中のあらゆる出来事、変化はそれが生じる直接の原因(因)と間接の原因(縁)が揃って初めて生じます。
例えばスイカの種を撒いていない畑に突然スイカが生えてくる事はありません。また、因であるスイカの種を撒いても、季節、土の状態、水、日の光等の縁が揃っていなければやはりスイカは生えて来ません。あらゆる出来事はそれにふさわしい因縁が揃って生じている(原因と結果の法則:因果の法則)と見るのもやはりとても大切な教えです。これは、身の上に生じる出来事には、必ず自分が何らかの原因になっている事を意味しているからです。どんな出来事でも、完全に自分が関係ない事はない、と言うとても重要な法則です。これは自分が関わる全ての出来事は、完全に他人のせい、と言う事はあり得ないと言う意味でもあります。
 次回から縁起の観点から苦の発生を防ぐ方法をもう少し詳しく見て行きます。

その事に傾く(人生には楽しいこともある、は執着の原因)

 前回は五蘊の中の特に喜びの受について学びました。これは重要な事なのでもう少しこの事について見ていきたいと思います。
 ブッダはある事について考えていると、その方向に心がどんどん傾くと言っています。例えば他者を恨んだり、復讐したり、加害する様な事を考え続ければ、心はどんどんその様な方向に傾いて行き、他者を害したいと考える様になります。しかしこう言う考えは自他共にあらゆる害があるので、好ましくありません。
 逆に何をされても他者を恨まず、復讐せず、加害しない事を考え続ければ、心はどんどんその様な方向に傾きます。ブッダはこう言う考えから生じる害は何も見えなかったと言っています。
 人間は興味を持つ対象に応じて考えが傾いて行く性質があるのです。従って喜びの受に満足すると、その受をまた味わいたいと思う様になり、もう一度もう一度とどんどんそれを求める方向に考えが傾いて行きます。本質的にアルコール中毒とか、麻薬中毒ギャンブル依存症と同じです。
 この様な考えは強い執着を生む原因です。もし喜びの受が永遠に続く様な実体のあるものなら、もう一度もう一度、と考える必要はないのです。しかし受は当然無常ですから、それこそ瞬く間に失われます。また味わいたくなるので何度も求める羽目になります。これが正に苦の原因であり、以前説明した輪廻です。
 輪廻は肉体の死後の事だけだと考えるのは大変な勘違いです。ブッダの説いた縁起(原因と結果、因果)では、生まれた後死ぬときに苦が生じるとあります。身体が死ぬときしか苦が生じないなら一度だけのことです。大した問題ではないと思いませんか?しかし、実際に観察される様に苦は生きている間にそれこそ何千何万回と生じます。肉体が生きている間に何度も輪廻するからです。
 最初の方に説明した苦の話で、「生きていて楽しいこともある」と言う反論があるのではと話しました。まさにこの楽しい事に執着するのが苦の原因なのです。煩悩の無い考え方、つまり第一義諦が見えたとき初めてこの理屈が明らかに見えます。智慧の高い人ならいきなり心から納得出来なくても、何となく正しい理屈だと思えるかもしれません。
 身勝手、わがまま、自分の都合、所有と言った煩悩が減ってきて、世の中を正しく見られる様になったときこの話が完全な真理である事が見えるはずです。そこに向けて少しずつ上記の身勝手などを減らして行きましょう。

みんな受(感覚)の奴隷?

 前回五蘊を学びましたが、それは今回の話をするためです。受というのは目耳鼻舌体心(これを六根とか六処入と言います)で感じたことから生じる感覚です。受にはそれを感じると喜ばしく思う「幸受」、痛みや苦みなどの感じると苦痛に思う「苦受」、壁に触っているとかその種の感じても喜びにも苦痛にもならない「不幸不苦受」の三種類があります。人間はそれこそ常にこの三種類の受を味わっています。 自然の流れで生きてきてブッダダンマを知らない人は、特に最初の「幸受」をとても良いものだとみなします。例えば美しい絵画や異性を見たり、可愛い赤ん坊やペットを見たりしてうっとりする目の「幸受」、美しい音や音楽を聴いてうっとりする耳の「幸受」、芳しい香りを嗅いでうっとりする鼻の「幸受」、美味しい食べ物や飲み物の味にうっとりする舌の「幸受」、好ましい手触りや快感を伴う接触にうっとりする身体の「幸受」、私はお金があって幸せだとか、可愛い子供がいて幸せだとかの心地よい考え、都合の良い望ましい考えにうっとりする心の「幸受」、どれもうっとりして何度も味わいたくなるものばかりです。
 誰もがこの幸受に夢中になるので、何度もこれを味わおうとして努力します。勉強して良い大学に入り、良い会社に就職しよう、良い異性と結婚しよう、などという考えも元を質(ただ)せばこの幸受をより沢山味わおうというのが動機になっています。戦争なども根源の理由は沢山の喜びの受を得ようというのが動機です。
 察しの良い方はもう気づかれたかもしれませんが、理屈で考えれば、このような喜びの受を沢山味わおうと言う考えが「所有」「執着」「身勝手」「わがまま」と言ったあらゆる苦の原因になっている事もお解りになるかと思います*1。何故なら喜びの受に極めて陶酔すれば、これを得るためならばどんな悪い事でも自己正当化して実行しようとするからです。よく世間で大きな会社の偉いと言われる人や、大学とかの偉いと言われる先生が横領や不倫などの不祥事で騒ぎになるのも、ひとえにこの幸受への欲が原因です。
 また、人に限らずあらゆる生命はそれぞれの命を少しでも長く存続、維持しようと自然界にプログラムされています。自分の生命を守るために他者を傷つけてでも食糧を奪ったりします。外部からの攻撃に対して反撃して身を守ろうとするのも自己保存の欲がそうさせます。種の保存のためにこう言った欲をプログラムするのは自然界の自然な戦略とみることもできます。
 ただし身体の命は無常で不死ではないので個体の存続には限界がありますから、この自然界のプログラムは余裕があれば個体の保存の代わりに遺伝子の保存を目的として生殖させます。これはかなり重要な目的なので性欲は非常に強烈な欲望として生じるように出来ています。ただし、生殖行為は危険も伴いますので、特に動物の場合は生殖の時期を限定したりもします。今の人間は外敵に襲われる機会が非常に減っているので、一年中繁殖期です。しかしこれも暫定的なもので、もし生命が危険に晒される場合は生殖などと言っている場合ではありません。溺れている人が「セックスしたい!」と強烈に感じている様では溺れて死んでしまいます。こういう場合は自己保存が優先されますから性欲はどこかに消え去ってしまいます。セックスなどは、極めて客観的に見ればすごく不潔で苦労の多い行為であり、好き好んでするべきものではありません。例えばいわゆるノーマルの性癖の人が同性や年をとってヨボヨボで今にも死にそうな骨と皮ばかりの老人とセックスしたいと思うでしょうか。実際には自然界が生命の各個体を騙して、遺伝子の保存に有利な異性と性交させるようにプログラムしているだけです。
 以上のことを良く考えてみると、六根(目耳鼻舌体心)の喜び、すなわち幸受には隠された非常に凶悪な害が見えてきます。身体の痛みなどの苦受は、時間が経てば普通消えますから喜びの受に比べると大した害は無いようにすら思えてきます(苦痛を喜ぶ人もいますからその場合は幸受になりますが)。こうして見てみると、幸受はゴキブリホイホイの餌のようなもので、甘い匂いに誘われてその餌に飛びつくと、抜け出せなくてにっちもさっちも行かなくなる罠です。ブッダは幸受を釣り針が入った餌に例えています。中に針が入っていると知らないで飛びつくので、死ぬか、死ぬほどの苦しみを味わうことになるからです。もちろん他の二種類の受も「自分のもの」と見れば執着の原因になりますから良いと考えるべきものではありません。例えばブッダの存命時には苦行で自らの心や、あるいは魂が浄化されると信じて一生懸命苦痛を味わう修行をした人が大勢いました。しかし、これはともすれば苦受への執着を産むことになりかねず、もしそうなれば幸受に執着するのと全く同じ結果になってしまうのです。幸受に執着する人々を馬鹿にしていた苦行僧が、実際には苦受に執着して幸受に執着するのと同じ轍を踏んでしまうとなれば、滑稽を通り越して哀れに思えてきます。
 人は良く「自分は自由だ」などと言ったりしますが、ほとんど誰もが喜びの受の支配下におかれていて、欲望にコントロールされています。欲望をコントロールできる人はほとんど居ません。実際、これが出来るのは数少ない出世間地(世俗を超えた悟りの境地、ローグッダラブーミ)にいる聖人だけです。善人も善を「自分のもの」と考えて執着していますので、仮に五欲(目耳鼻舌体の幸受への欲)からは抜けていても善に対する欲望がまだあります。こう言う欲に支配された大多数の人は世間地(ローギアブーミ、俗世)にいると言われます。

*1:更に深く見ればこれらの苦の原因は「自分」と言う概念、錯覚、執着である我語取が根本的なものです。

五蘊

 「自分」という執着を捨てることで苦が無くなるというのがブッダの教え(ブッダダンマ)だということをこれまでに見てきました。今回は何を「自分」と見ているかについてです。人間は色々なものを「自分のもの」とか「自分自身」と見ます。ゴータマブッダは世界(主観的世界、自分)を物質と心に分類しました。所有していると思い込んでいる物、特に身体は物質なので「色(目に見える物、映像になるもの)」とひとまとめに、心に相当する部を四つに分類してこれらを「名」とし、心身を合計五つに分類しました。これを五蘊(ごうん)と呼びます。実際問題として、大多数の人は普通、心と身体を「自分」と思っています。今回はこの心と身体、つまり心身(色名、名色)の分類、すなわち色受想行識を見て行きましょう。
 身体(色)について詳しく見れば頭、胸、腹、手、足、、、というようにかなり細かく分類してみて行くことが出来ます。しかしこれまで述べてきたように身体は必ず崩壊します。それに例えば手足などを失ったから身体ではなくなるか、というとそうでもありません。適切な処置があればまだ生命活動は続けられます。右手と左手、どちらも大切ですが、どちらが苦の減少に比率が高いかと言うとこれは同じです。ブッダの見地から見たら身体を細かく分類することは意味がないので、ブッダダンマでは身体は「色」として扱います。ブッダは「なぜルーパ(色)と言うかは、崩壊する性質があるので、ルーパと言う」と述べていることからルーパは物とか身などと訳す方が解りやすいでしょうが、映像として見られる物と考えるなら「色」と言うのもあながち間違っている訳ではありません。しかし普通の人にとって、nama-rupaはそのまま「心身」と訳した方が解りやすいとは言えるでしょう。
 一方で、ブッダは心(名)を受、想、行、識の四つに分類しています。
 受は感覚の事であり、幸せに感じる喜びの受と、苦痛に感じる不幸の受と、喜びでも苦痛でもない不幸不苦受の3つに分類することも出来ます。毎日毎秒、感覚だらけです。これを受蘊と呼びます。
 想は意識とか自覚することです。今目覚めている、眠っていない、肉体が死んでないと知覚できれば目、耳、鼻、舌、体を介した刺激に対してこれはこうだ、あれはああだと区別するので記憶認識と説明されることもあります。
 行は作り出す力です。形成力と訳されることもあります。色々な意味で使われますが、心の中で作り出される考えなどが行です。どのような意味で使われても、作り出す、という意味が含まれます。
 識は目、耳、鼻、舌、体、心で感じることに対する意味付け、認識です。多くの人が思っているような魂ということではありません。少し難しくなりますが、魂があると見れば常見であり、魂など無いと見れば断見で、どちらも極端であり、ブッダダンマの中道ではありません。ブッダの言葉にもしばしば死んだ後に何々に生まれ変わると言う表現がありますが、これは言葉通りそのまま棺桶に入る肉体の死の意味だけに限定してしまうと後々説明しにくい事が生じますので、ここでは輪廻は心の変化、新しい心が生まれる事を含めておきます。これはとても大切な考え方です。
五蘊とはこの様に心身を身体と四つの身体でないもの、心に分類した考え方です。五蘊とは心身の事だと考えても大きな問題はありません。ダンマを細かく見ていくときに五蘊とした方が便利なのでこの単語を使います。