苦とは(四聖諦)
一度ここで苦についてその分類をしてみましょう。ブッダは苦から逃れるためには四聖諦を必ず知る必要があると言っています。四聖諦とは苦集滅道の四つです。「苦」は苦とは何か、「集」は苦の原因は何か、「滅」は苦の消滅はどのようか、「道」は苦を消滅させる方法です。日本で広く親しまれている般若心経では苦集滅道、すなわち四聖諦も無いよと言われている様ですが、四聖諦を知らなければ苦を無くすことはできません。そうブッダが断言していますし、私もそう思います。今回はこの四聖諦のうち最初の「苦」について見てみます。「苦」は次のように分類されます。
以下はタイの比丘であるターン・プッタタート著作、タンマダー氏訳「ブッダヴァチャナの四聖諦」を元にさせて頂いております。
「生」
生まれること、誕生すること、(母の胎内に)降りて行くこと、発生すること、突然生まれること、すべての蘊が発現すること、その生き物の分類の動物の、いろんな処入があることを、生と言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項
「老」
老いること、呆けること、歯が抜けること、白髪になり皮膚にしわがよること、その動物の部類の六根が衰え、余命が衰えることで、これを老いと言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項
「病」
病むこと、体の機能が正常に働かないこと、健康でないこと、正しい状態で維持されていないこと、何らかの健全な状態から変化して健全でない状態になること。これを病と言います。
「死」
死ぬこと、移動すること、崩壊して無くなること、消滅、命が終わること、死ぬこと、すべての蘊の崩壊、その生き物の体を捨てること。これを死と言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項
「悲しみ」
悲しみ、憂い、何らかの災難に遭った人の、何らかの苦の衝撃を受けた人の悲しみ、憂悶。これを悲しみと言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項
「嘆き」
何らかの苦である何らかの災難に遭った人の嘆き悲しみ、愚痴、嘆き悲しむこと、呆けて愚痴を言うこと、嘆き悲しむ人であること、愚痴を言う人であることです。これを嘆きと言います。長部マハヴァッガ 10巻341頁295項
「体の苦」
体の成り行きである耐えがたいこと、体の成り行きである安楽でない(病気。異常)こと、耐え難いこと、体の刺激から生じる安楽でない感覚。これを体の苦と言います。
長部マハヴァッガ 10巻342頁295項
「心の苦」
心の成り行きである耐え難いこと、心の成り行きである安楽でないこと、耐え難いこと、心の刺激から生じる安楽でない感覚。これを心の苦と言います。長部マハヴァッガ 10巻342頁2955項
「憂い」
何らかの苦、何らかの災難に遭遇した人の憂鬱、不満、悶々とした状態、悩みのある状態。これを憂いと言います。長部マハヴァッガ 10巻342頁2955項
「愛していないものと会うこと(怨憎会苦)」
その人にある望まない、欲しくない、満足できない形・音・臭・味・触、あるいは利益を期待しない、支援を期待しない、安寧を願わない、その人との絆の安全を願わない人たち、その感情、あるいはそれらの人と一緒に行かねばならないこと、一緒に来なければならないこと、一緒に暮らさなければならないこと、混じらなければならないこと。これを嫌いなものと一緒にいることは苦と言います。長部マハヴァッガ 10巻342頁295項
「愛するものと離れること(愛別離苦)」
その人にとって望ましい、欲しくなる、満足する形・音・臭・味・触、あるいは利益を期待し、支援を期待し、安寧を願い、その人との絆の安全を願う人たち、つまり両親や兄弟、友人、相談役、血族などと一緒に行かないこと、一緒にいないこと、一緒に住まないこと、その人あるいはその感情と一緒にいないこと。これを愛するものと離れることは苦と言います。
「望んで叶わないこと(求不得苦)」
当たり前に生がある生き物に「ああ、私たちは、当たり前のように生がある人になりたくない。そして生が私たちの所へ来なければなあ」と、当然このような望みが生まれます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、望んで叶わないのは苦と言います。
当たり前に老いがある生き物に、当然「ああ、私たちは当たり前に老いのない人になりたい。そして老いが私に来なければなあ」と、このような望みが生じます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、望んで得られないのは苦と言います。
病気が当たり前にある生き物に、当然「ああ、私たちは病気が当たり前にない人になりたいなあ。そして老いが私に来なければなあ」と、このような願いが生じます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、何かを望んで得られないのは苦と言います。
当たり前に死がある生き物に、当然「ああ、私たちは当たり前に死のない人になりたい。そして死が私に来なければなあ」と、このような望みが生じます。これは、生き物が望んで到達できることではありません。これも、望んで得られないのは苦と言います。
悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みがあるのが当たり前の生き物に、当然「ああ私に、悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みが当たり前にない人になりたい。そして悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、悩みが私に訪れなければなあ」という望みが生まれます。これは生き物が望んで叶う訳ではありません。これも望んで叶わないのは苦、と言います。長部マハヴァッガ 10巻343頁295項
「五取蘊苦(五蘊盛苦*1)」
五取蘊、つまりこれらは執着の基盤である蘊、つまり形、執着の基盤である蘊、つまり受、執着の基盤である蘊、つまり想、執着の基盤である蘊、つまり行、執着の基盤である蘊、つまり識、これらを、「要するに五取蘊は苦」と言います。長部マハヴァッガ 10巻343頁295項
現代の分類では上記に述べられた苦のうち、生老病死を四苦、それに加えて怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五取蘊苦の四つを合わせて四苦八苦としていますが、最後の五取蘊苦は前の七つを包含していますので、いくつかの苦のうちのひとつの苦に分類するのは論理としてどうかと思います。
五取蘊苦とは、五蘊(形受想行識)を「自分」「自分のもの」と間違って思い込むことで生じる全ての苦の源です。五取蘊苦が消滅すれば、他の全ての苦は消滅します。
両岸の話、触(その2)
前回は内外(内側二つ、外側一つ)の原因が全て揃って苦が生じる事を説明しました。今回は具体的に内外の原因の例を見てみましょう。
例えば自分にとって凄く面倒で嫌な事を頼まれたり、自分が良いと思っているのとは違う方法で物事を進められたりすると、大変不快に感じます。もっと具体的に言えば、風呂掃除したくないときに風呂掃除を頼まれれば、「風呂なんて一度位洗わなくても大丈夫だよ。」と言ったりします。しかし、無明(事実が見えないこと)に隠された心を見てみると、「(本当はやりたくないから、やらない言い訳をしよう、怠慢な自分を正当化しよう、もし誰か掃除してくれるなら風呂は綺麗な方が良い。)」と言う様に極めて身勝手な考えが潜んでいます。
しかもたちの悪い事に、普通の人はこの隠された自分の考えが見えません。自分の中、何よりも一番近い所にあるのに見えないのです。無明と言う無明が覆い隠しているからです。これが怒りや嫌悪、怠慢、強欲と言ったあらゆる苦の温床になっています。無明、煩悩は悪質な結婚詐欺師の様なもので、味方のふりをしてあらゆる害をもたらします。傍から見たら何故騙されるのか不思議に思える詐欺事件は、被害者が詐欺師を味方だと思い込むから生じます。煩悩は身勝手を助長するので味方に見える所が本当に悪質な点です。
具体例に戻ります。仕事で相手から自分の気に入らない方法を提案されたりすると、「なんだ!そんなやり方で上手く行くものか!(お前は馬鹿で無能なんだから、俺様の言う通りにしてれば良いんだよ!!)」などとそれこそ怒り狂います。実はその方法の方が色々良い面があったとしても、自分の都合の視点でしか見られないので理解できません。こう言う人達は本当に普通にどこにでも見かける事が出来ます。
この種の無明から生じる感情に支配されていれば、目一杯苦です。特に、怒っている人は煩悩に完全に支配されていますので、人間ではありません。死人であり地獄の住人です。以前人は肉体が生きている間に何度も輪廻を繰り返していると説明したと思いますが、この様に生きている間に死んで地獄に堕ちたりもしています。
何故死んでいる事が解らないかと言うと、普通の人は肉体の活動が止まって棺桶に入る事しか死を知らないからです。ブッダの教え(ブッダダンマ)を知らなければ、私もこの事実を肉体が棺桶に入るまで(入っても)知らなかったでしょう。
身勝手な欲、つまり煩悩にかられて何かが欲しくて欲しくてたまらない時なども地獄です。ブッダの言葉には煩悩はたまに訪れる(いつも煩悩に支配されていたら狂って死んでしまいます。)とありますが、煩悩に完全に支配されれば、その都度死んでいます。
しかも、日常的に良く怒る人と言うのは、目一杯我があり、身勝手で、怒りが内外の共同製作物である事を知りません。なので、前回のゴキブリの話の様に、悪い事をいつも外部の原因のせいにばかりしていて心から反省する事がありません。こう言う状態は大変な苦でありながら苦の原因を知らないので、焦熱地獄に例えられる様な悪循環です。
この種の状態は大変な害があり、一刻も早くこの様な生死を繰り返して行く循環を抜け出す事が大切です。ブッダは教えの初期には弟子をサマナ(修行僧)と呼んでいた様ですが、後に比丘(びく)と呼んでいます。比丘とは輪廻の害が見える人、と言う意味だそうです。良く映画などで恋人同士が「生まれ変わっても、また一緒になろうね。」などと言うセリフが出てきたりしますが、輪廻は無常の循環に組み込まれた状態であり、害ばかりでちっとも素晴らしい事ではないのです。一時は熱愛状態の恋人同士が、少しして別れる事も良くあります。芸能界などは結婚して数年で離婚するのがまるで話題作りの義務なのではないかと思うほどです。これは、二人のうちどちらかあるいは両方が相手を好きな状態から、相手を好きではない状態に「生まれ変わった」のが原因です。これも無常であり、輪廻です。
無常な状態は、落ち着きがなく、目まぐるしく変化していて、熱く燃えているので、感覚として苦を感じられなくても結局は苦です。燃え盛る炎をわざわざ抱きかかえる物好きな人はあまりいませんが、欲望の対象は物理的な火がついていなくても、無常の見えない炎で熱く燃えているので、掌握すれば苦になると言う道理です。
世の中は無常なので人間の力では外部の状態を思い通りに制御する事はできません。したがって苦は内部の原因、特に間違った身勝手な心から生じる愚かな触~受・・・苦のルートを防ぐ事でしか減らせません。
まさに苦かどうかは心がけ次第と言うことです。
両岸の話、触(その1)
縁起(原因と結果:因果の法則)
その事に傾く(人生には楽しいこともある、は執着の原因)
みんな受(感覚)の奴隷?
*1:更に深く見ればこれらの苦の原因は「自分」と言う概念、錯覚、執着である我語取が根本的なものです。