一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

欲望と正しい希望(正志、発心)

 今回は欲望について少し詳しく見ていきたいと思います。何が欲望なのかを正しく知らなければ、欲を減らすと言っても難しいのです。悟った人でも食事をして、眠ります。これを見たら食欲と睡眠欲に支配されているじゃないか、という批判が当然考えられます。この批判に対する結論は後で述べます。普通は「~したい」という考えや気持ちは全て欲望だと見てしまいます。しかしそうではありません。行動の動機には、執着する方向に向かう世俗の動機である欲望(欲)と、解脱する方向への動機である正しい希望(正しい望み、志、発心)の二種類があるのです。「このお金(お金でなくても、異性とか立場などの概念でも構いません)が欲しい、自分のものにしたい。」というのは身勝手から生じるので欲ですが、「間違った見解を改めたい、心を良くして苦を減らしたい。」というのは身勝手ではないので正しい希望です。
 つまり身勝手があるかどうかで欲望か正しい希望かに分類されます。では身勝手とは何でしょうか。身勝手とは「この動機、願望が満たされるなら他者にどのような被害があろうが構わない。とにかくこの願望さえ満たされれば良い。」という視野狭窄の考え方です。考え方、見解、ものの見方のことをブッダダンマでは見(けん)と言います。見が間違っていれば、あらゆる悪をなすことを厭わなくなります。罪を恥じて恐れることを慚愧(ざんき)と言いますが、慚愧が減る、あるいはなくなる方向の願望や動機を欲望と言っても良いです。悪見、邪見(間違った考え)があるので欲望が生じます。身勝手なら喜びの受(感覚)を間違って自分の利益と見るので、そのためにはどんな悪でも自己正当化して犯します。最たるものは戦争です。戦争は要するに戦争を起こす人が他者より沢山の喜びの受を得ようとするのが根本的な動機です。多大な人に被害が及びますので戦争を起こそうとする考えは全て欲望であり悪です。個人レベルなら喧嘩をしかけるのはもちろん悪ですし、応戦するのも悪になります。国でも個人でも大差ありません。
 しかし、この世の無常、苦、無我を見て、「この世界は苦だ、生きることは苦だ、この苦から逃れたい」と考えることは他者を害することがないので正見(しょうけん)で、身勝手ではありません。何故なら他者を害することは「自分の都合」「身勝手」があって苦であり、そういうことをしていれば苦から逃れられないからです。前回にも説明したように、苦から逃れるためには身勝手を捨てる必要があります。身勝手を捨てる行動が身勝手なのでは矛盾しています。これは正しい希望です。正しい見解が正しい希望を導いて身勝手を減らすのです。
 俗世に生きている間は、何が欲望で何が正しい希望なのかなどはおそらく考えることすらないので、両者の区別がつかないのは仕方のないことです。しかし、身勝手が増えるか減るかと言う方向、基準によって、欲望(身勝手:増)と正しい希望(身勝手:減)を区別することが出来ます。
さて、最初に挙げた悟った人が食事をして眠るのは欲か否かと言う問題について見てみましょう。完全に悟った人は、肉体を自分のものとして見ないので、別に食べないで飢え死にしても構わないと言えば構いません。しかし肉体もひとつの命ですので、無闇に殺すのは身勝手になります(自殺は身勝手な考えで生じます)。肉体を何か他の動物の食事として与えることはあり得ますが、普通はそれよりもダンマを広める手伝いをした方が生物全体の利益になるので命を繋ぎます。しかし無常である肉体の命に執着してはいませんので、生も死も等価値です。こういう人はいつでも死ぬ準備が出来ていると言えます。普通の人は「自分の命」に執着しますので、死ぬのは怖くて仕方ありません。船が難破して木材に掴まっているとき、自分が生きるためなら他者を棒で殴ってでも生き延びようとします。これが世俗の見です。法律ですらこれを許したりしています。法律を作る人も世俗の見しか持っていないからです。
 最終解脱しない限りは生き物は全てまだ死にたくない、生き延びたいと考えていますから、生き物を殺すようなことは身勝手になります。なのでブッダは生き物を殺してはいけないと教えています。蚊を潰して殺すのも身勝手なので駄目です。食事も本来生き物を殺していますので良くないのですが、普通の人が自分たちの食事を作っていて、その余りを頂くなら新たな殺生はしないことになるので妥協できる許容範囲となります。ただし、食事を摂ることは執着への危険を孕んではいます。これは十分注意しなければなりません。また、肉と野菜とを区別をすることは出来ません。どちらも同じ命だからです。あの人は肉を食べているけど、自分は野菜しか食べないから清浄だ、などと考えるのは明らかな邪見です。
 以上のような理由から、ブッダは生前は托鉢(たくはつ)と言って普通の家の人、つまり在家(ざいけ)に食べ物を分けてもらっていました。この事を乞食だと非難する人はいますが、自ら農耕や牧畜などをすれば米や麦、あるいは牛や豚、羊などを積極的に自らの手で殺す事になります。これでは殺生を犯すことを避けられなくなります。したがって托鉢は出家の修行僧には必須の義務なのです。完全に悟っているなら托鉢が上手く行かなくて飢え死にしても別に構わない訳ですし。
 ブッダが悟った深い真理、解脱の方向に向かう明らかなものの見方を第一義諦(だいいちぎたい)あるいは勝義諦(しょうぎたい)と言います。一方、普通に本当に一般的に考えられているものの見方を世俗諦(せぞくたい)と言います。おそらくこのブログを読んでいると色々な違和感があるのではないかと思います。それもその筈で第一義諦と世俗諦とは常に噛み合わないのです。何故なら明らかに真実をありのままに見たのが第一義諦であり、世俗諦はこの世を間違って見ているのですから。しかし誰でも皆最初は世俗諦でものを見ています。これは仕方ありません。少しずつ世俗の見解に含まれる間違いを認識していくと、段々と第一義諦が理解できるようになってきます。これは深さの問題なので、中々一朝一夕には行かないと思いますが、苦を減らすという人間にとって最高かつ唯一の目的を達成するために努力していきましょう。

身勝手を減らす実践方法

 ブッダの教えは聞いただけで効果を得ることは普通は中々難しいと思います。しかしブッダに直接教えを聞いた人はその場で悟りに到った人も結構居た様ですので、もしかしたら智慧の高い人だと前回までの話で何らかの悟りを得たかもしれません。しかしこのブログは一から学ぶのがテーマですから、じっくり進んで行きましょう。今回は早速誰でも普段から行える効果的な実践方法をご紹介します。今すぐ始められる方法です。でもその前にどういう理由でこの実践をするのかをしっかり知っておく必要があります。理屈に合わない方法を鵜呑みにして修行と思い込んで行う事は、ブッダが厳しく禁止しています。そう言う方法は時間の無駄になるだけでなく、却って苦の原因である執着を増やす可能性があるからです。
 さて、その様な訳で実践方法に入る前にまず背景を説明したいと思います。前回までに述べたことからも察せられる様に、普通の人はこれまでの人生で既にかなりの量の「自分」と言う間違った執着を持ってしまっています。自分と言う誤解から生じるわがまま、身勝手さがある限りこの「自分」と言う執着(我語取)は無くなりません。
 例えば自動車の運転に慣れていない人は上手く運転できませんが、慣れていない分色々な観察をし、労力を払って慎重に運転します。いくつか悪い癖などはあるでしょうが、無意識の操作はあまりありません。しかし、運転に慣れてくるとかなりの操作をあまり苦労することなくほとんど意識せず無意識に行えてしまいます。
 車の運転ならそれも良い面があるかもしれませんが、「自分」と言う執着の場合話は別です。皆「自分」にすっかり慣れてしまっているので、意識せずにわがままや身勝手さで行動しています。無意識で行う分、これを取り除くのは容易ではない事は想像出来るかと思います。なのでブッダの教えでは努力してこのわがままさ、身勝手さを見つけて減らしなさいとあります。どう減らすのでしょうか。
 例えば歯を磨くときに水道を出しっぱなしにしている人は少なくないでしょう。その方がいちいち蛇口をひねらなくて良いので楽だからです。しかし、これは明らかに水の無駄遣いです。客観的に見れば正しくありません。自分が楽だから間違ったことでもやって良い、と言う「自分の都合」で、水の無駄遣いをしている訳です。これを知ったので身勝手さを減らすために今から水を無駄遣いすることを止めます。
 他にも色々な例を出すことが出来ます。何せ日常生活の中にわがまま、身勝手はそれこそ掃いて捨てるほど転がっているからです。例えば交通信号で間に合いそうもないから走ることなどもわがまま、身勝手さです。信号を一回待つくらい数分しかかからないことです。しかしなぜたったその数分のために自分と周りの人を危険に及ぼすようなこと、つまり走ることをするのでしょうか。これも身勝手で正しい行動ではありません。次から止めます。
 自動改札で前の人がつかえてイライラします。これも良く考えれば前の人は困っている訳であって、わざわざあなたを邪魔しようなどと思っていません。悪気がない人を自分に不都合だからと言って怒るのも正しくありません。そもそも身勝手、わがままだから怒るのであって、次から怒るのを止めます。
 例えばお酒が大好きだとします。毎日お酒を飲みます。しかし、それは命を繋ぐのに必要な行為でしょうか。酒で酔って心が乱れる味に取りつかれてしまって、正誤、善悪が不明になるような状態を楽しんでいませんか。そもそも身体にも脳にも良くありませんし、何より欲と執着に溺れる行為です。これも正しい行動ではありません。次から止めます。
 同様にコーヒーが大好きだとします。一日で何杯もコーヒーを飲みます。しかし、それは必要な行為でしょうか。コーヒーの味に取りつかれてしまって、身体にとっては水で十分なのにわざわざコーヒーを飲んでいませんか。これもわがままから来る欲であり正しい行動ではありません。次から止めます(止められないかもしれませんが)。
 以上の方法はブッダが滅苦に必要だと説いている「八正道」あるいは「サマタとヴィパッサナー」という手法の具体例です。この調子で日常の行動を全て検証して訂正していくと、わがまま、身勝手さはどんどん減っていきます。しかし慣れていないと随分窮屈な感じがすると思います。生きていけないと思う人もいるかもしれません。それは煩悩という心の病気が餌をもらえないので苦しんでいるのを、間違って「自分」が苦しんでいると感じるからです。しかしそこを耐えてこれを続けて行くと、「自分」という執着はどんどん減って行き、いずれ完全に無くなります。これが苦の終わり、苦が消滅することです。途中の段階でもはっきり苦が減る事を実感できます。しかし、現実問題としていきなり完璧にこういう梵行(ぼんぎょう)は中々出来ないと思いますので、とりあえず出来る範囲から始めることになります。どんなことでも最初から完璧にうまくできる人はいません。出来る範囲、可能な事から始めます。これは実践する皆さん各自の裁量で行うことになるでしょう。目標にも関係します。完璧に苦を無くしたい、最終解脱したい人は完璧に行う必要がありますが、とりあえず今この苦しさが減れば良いやという人なら少しずつになるでしょう。それは各人の心がけ次第です。
 また、何が正しくて何が間違いなのかという疑問は当然あると思います。この答えは滅苦につながるダンマなら正しくて、そうでないなら間違いです。ダンマかどうかについては長くなるので後程改めて説明したいと思います。

欲望と執着

 仏教では欲望、執着をなくす教えがある、と言うのは聞いたことがある方が多いと思います。実際その通りで、欲望、執着が完全に無くなればその人は最終解脱した阿羅漢(アラハン)です。欲望、執着は人の内部の苦の原因です。苦には外部の原因もあるので、苦は内部と外部の原因が両方揃って生じます。これはどういう事でしょうか。
 世の中は無常なので、発生したものは必ず変化します。しかし、人は自分にとって都合の良い状態が永遠に続いて欲しいと思います。例えばずっと死にたくない、若いままでいたい、と考えます。結論から言えばこの様な考え方自体が欲望であり、自分の都合の良い状態への執着です。もし世の中を真実ありのままに見ることが出来れば、「無常だから生じたものは維持することは出来ない。維持しようとすれば不可能な事を行おうとすることになり苦だ。」とはっきり見えるので、自分の都合で物事を見るような無意味なことはしません。
 そうは言っても、人は中々そのように真実ありのままに物事を見ることは出来ないので、生まれてからずっと、この身体は自分、この心は自分、この立場は自分のもの、この財産は自分のもの、と言う様にどんどん「自分」と言う概念を増やして行きます。そうすると当然、「自分の都合」と言う概念も膨れる一方となり、身勝手、わがままさはどんどん大きくなっていきます。これが内側の原因です。
 身勝手、わがままになればどんどん色々な良い感覚(喜びの受)を求める様になり、都合の良い映像、音、香り、味、接触を求める様になります。同時に自分の都合に合わないものは嫌悪して、排除したいと願います。つまり欲望はどんどん増えます。しかし無常なので当然その様な望みが全て叶うことはあり得ません。苦を招く不都合な状況、これが外側の原因です。「自分のもの」と掴む、掌握する準備が心の中で整ってしまっています。これを内側の原因と言います。期待の心は、その通りになれば喜びますが、その通りにならなければ失望します。「どちらか片方だけ」ということは出来ません。当たりくじ(欲しい結果)を握ろうとしているので、出てきたくじを必ず受け取ります。そのくじが当たりか外れか(結果)は、受け取ってから解ります。宝くじを買って、結果が出る前に当たりくじ(喜び)だけ受け取ることは出来ません。これを因果(原因と結果)と言います。
 望みが叶わない状況(苦の結果)になったとき「「自分の」希望通り、都合通りにならない」と思うので、つまり外側と内側の原因が揃うので、怒り、嘆き、悩み、悲しみ、憂いその他全ての苦しみの山が発生します。大切なのは、内外両方の原因が揃う必要があると言う事です。わがままな人でも希望が通っている間は(明らかな)苦にはなりません。これは外側の苦の原因がないからです。そもそもくじを買わない人は、喜びも苦しみもなくなります。これが滅苦です。
 以上に述べたように、欲望、身勝手があっても一部は思い通りになり、満足します。ただし、満足の威力でまた欲しくなるので、また喜びの受を求めます。宝くじを買って、当たりに味をしめてまた買うのに似ています。そして望みが叶わない事が生じて結局苦しみの山が発生します。この様な期待の気持ちの発生と消滅の繰り返しを輪廻(りんね)と言います。
 輪廻と言えばこの肉体が死んで棺桶に入った後にまた違う生命体として生まれて来ることを想像する事が多いと思いますが、そう言う輪廻の存在は確認する方法が無いのでここでは置いておきましょう。実際ブッダもその様な生まれ変わりの話については「説明しない」と断言しています。ブッダは生きている間に苦を無くす方法を説いているので、棺桶に入った後の輪廻について考える必要はあまりないからです。そんな事を考える暇があるなら今この身の上に生じている苦を減らす努力をした方が良いでしょう。
 では実際にどうすれば苦が減るかと言う事が皆さんが一番知りたい所でしょう。既に上に答えは書いてあるようなものですが、「自分の都合」「身勝手」「わがまま」を減らせば欲望とそれに伴う執着が減るので、内側の原因が減り、苦が減ります。宝くじを買わない、ということです。どうかそんな事は出来ないと仰らないで欲しいと思います。皆さんも今までに全く個人的な利益にはならないけど、そうするべきだからした、と言う行動はある筈です。
 例えば道に落ちてるゴミを拾ったり、困ってる人がいたら純粋に善意で助けてあげたり、などの行為が例として挙げられます。大変ではありますが、まるきり不可能な事ではありません。譲って、思いやり、助けて、衝突しそうなら引き下がれば良いのです。正しく考えれば、人に降りかかる大抵の問題は、ほんの少し「我」を抑えて忍耐するだけで済むと見えて来ます。しかもそうすれば利益を得る人はまず間違いなく増えます。自分自身*1も相手の利益を自分の利益と見ることが出来る様になるので、結局利益を得られます。一見矛盾するようですが、「自分」を無くすと誰も損することはありません。利益ばかりになります。人は普通いつも「自分の都合」中心で物事を見ますが、この様に「自分の都合」と言う視点を無くせば自然と皆の利益になることが望ましく、誰の損失にもならないと考えられる様になります。
 自分を無くす、と言うとすぐこんな世界自分の思い通りにならないからどうでも良いや、死んでも構わない、と言う様な発想に至る人もいます。しかし、自分を無くすと言うのはそう言う自暴自棄の乱暴者の考えではありません。自暴自棄の考えにはいつでも裏に「思い通りになるならいつまでもそうなって欲しい」と言う様な極めてわがままで、身勝手な発想があるからです。
 本当に自分の都合がないなら、皆が苦しまないで利益が得られる方が良いに決まっています。ですから、「自分」あるいは「自分の都合」と言う考えを正しい方法で無くせば、その人だけでなく皆の利益に繋がる事がわかる筈です。これも正しい「無我」のとらえ方であり、ブッダの勧める極めて効果的に苦が減る考え方です。

*1:自分の都合を排除した人に自分自身はないのですが、便宜上この言葉を使います。

無我(その2)

 前回「自分」とは何なのかと言う問題を考えてみました。「自分」と思っているこの心と身体は、無常のものなので時々刻々変化しています。今心で何かしたいと思っていても、少ししたらすぐその気持ちは変わります。例えばすごく喉が渇いたと思って水を飲んで満たされたら、もうその時には水を飲みたいとは思っていません。むしろこれ以上飲んだら苦痛です。さっきあれほど喉が渇いていて「水!とにかく水を飲みたい!!」と強烈に思っていたのにも関わらず、です。
 身体も全く止まっていません。四肢は少しの時間は止めていられても、何時間も止めるのは難しいです。それに心臓は絶え間なく脈打っていますし、呼吸もとても長時間は止められません。全身の細胞は絶えず代謝活動を行っていて、表面的に止まって見えたとしても、身体の方も心と同様にどこを見ても無常でない所はありません。
 それでは一体、いつの時点の心と身体が「自分」なのでしょうか。そう言うちっとも止まらない心身を「自分」と言っても良いのでしょうか。
 そろそろ「自分」と言う概念が大分ぐらついてきたのではないでしょうか。それもその筈です。ブッダは皆が普通に「自分」と思い込んでいるこの心身は「自分」ではないと明らかに見えたのです。「自分」と言う概念はまやかしなのです。ここで「所有」と言う概念を考えて見ましょう。所有すると言うのは「自分のもの」にする、と言う事です。しかしそもそも無常で変化するものはどうやっても崩壊するので無くなります。金やプラチナなどは錆びにくいですが、それでも傷はつきますし、溶かせばどこかに行ってしまうでしょう。大切なあらゆる物は、買った新品の状態で維持し続けることは不可能です。これでは返却しなければならないレンタル品と変わりません*1。当然ですがレンタル品は自分の所有ではありません。そんな人はあまりいないと思いますが、もしレンタカーを借りて乗っていて、その車に心底惚れ込んでしまったら、返す時大変つらい思いをする事になります。もしその車をそのまま借りっぱなしにして盗んでも、今度は罪の意識に苛まれ、元の貸主からは返してくれと迫られることになるのでどの道苦痛からは逃れられません。何より車も無常ですからいずれ崩壊します。
 そんな人はいないよと思うかもしれませんが、皆さんは普通に自分の心身でこのレンタカーの話と同じ過ちを犯しています。何故なら、必ず老いて死ぬ肉体、つまり返却しなければならないものを自分の所有の様に勘違いしているからです。発生したものは無常なので必ず消滅します。そういうものを所有する事は出来ません。何のことはない、今まで「自分」とか「自分自身」と思い込んできたこの心身は自分でも何でもなかったのです。「自分」という発想が自然の威力で生じる無明(真実をありのままに見られない無知)によって騙されて生じていただけなのです。これがこの世の中に「自分」とか「自分自身」と呼べるような実体はどこにもない、「自分はない」という「無我」の真理です。
 おそらく今回は非常に理解しにくかったのではないでしょうか。実際、この話が完全に心の底から納得できるなら、それは最終解脱であり阿羅漢(アラハン)と呼ばれる悟りの中の最高の境地です(ブッダと同じ境地)。いきなりこれは難しいと思います。しかし、智慧の高い人であればここまでの話で最終解脱出来てしまうこともあり得ますし、最初の解脱である預流果であれば、これは十分あり得る話です。見解、ものの見方が完璧になれば、それは預流果という最初の悟りです。実際にブッダの説法を聞いてその場で預流果に達した人は少なくないと伝わっています。
 既にブッダの教えはここまでで一応完全な形で説明されました。上で述べた様にブッダが生きていた時代はこれだけで悟った人も居た様ですが、通常はもう少し詳しい説明が必要でしょう。次からは他の形で示されるブッダの教えを見ていきたいと思います。もちろん、最終的な結論は同じ所に行きつきますが。
 また、ここまでの話でご質問などがありましたらコメントやメールを頂ければと存じます。一切の加害の心なくお答えさせていただきたいと思います。

*1:厳密には借り手たる主体もないのでレンタル品ですらありません

無我(その1)

 今回は三相の最後、無我について見てみます。まだたった数回ですが、そろそろ難しくなって来たのではないでしょうか。「理屈では何となくわかるけど、納得できない。」「どうも騙されているような気がする。生きていて楽しいこともある。」と思う人は多いのではないでしょうか。
 そうです。騙されているのです。そう感じる読者の方は全員、無明に騙されています。無明とは、自然の成り行きで生きていると自然に生じる誤解や、真実をありのままに見られない状態、要するに無知と思ってもらって構いません。別に皆さんを馬鹿にしている訳ではありません。むしろ騙されている事に気付いて頂いて、真実を見ることで生きる苦しみから逃れてもらいたいと心の底から思っております。世間的にどんなに偉い、有名な学者さんなどでも、どんな大金持ちや有名人でも騙されている人がほとんどです。もちろんそれを知っている人もほとんどいません。
 折角このブログとのご縁があった訳なので、是非とも読者の皆様には、「今自分が騙されている」ということを理解して、利益にして頂きたいと思います。詐欺師に騙されている人を見て、うるさがられるからと黙っているのが親切なのか、うるさいと思われても本当のことを言って気づいてもらうのと、どちらが良いかという話と似ています。
 とりあえず話を戻そうと思います。発生する全ては無常、生きるのは苦、だとすれば、そういうもの全ては本当の「自分」や「自分のもの」とは言えない、とブッダは明らかに見えたのです。本当に「自分」や「自分のもの」があるのなら、「自分」の意に反して老化することも失われることもない。皆「自分」と思い込んであれこれ思い通りになると期待してしまうので、小さい餌に皆が飛びついて奪い合うような苦しい世界が生じている、とブッダは真実をありのまま*1に見ました。
この話はちょっとすぐに理解しがたい事でしょうから、先に世界の話をしたいと思います。普通の人は無意識に何でも「自分の都合」で物事を見ます。例えば犬とそれを見る複数の人がいたとします。ある人はこの犬は可愛い、好ましい、と思う一方で、ある人は犬なんて大嫌い、臭いし吠えるし噛みつかれて怪我したり、まして病気でも移されたらどうしよう、などと言う様にとことん嫌悪することもあるでしょう。ブッダの目から見れば、この両者(可愛いと思う人、嫌う人)はどちらも不幸な人ですが、とりあえずここではその事は置いておきます。
 完全に客観的に見れば、この場合犬とそれを見る複数の人がいるだけなのです。しかし、犬を見る人が複数いれば、それこそ見る人の数だけ見えること思うことは違うでしょう(ここは重要で、後から見返すなどして何度も学習してみてください)。人間は自然の流れで生きていると、基本的には全て主観で物事を見ています。生じている現象を客観的に見ることは普通の人には中々できません。つまり「主観的な」世界は人の数だけある、ということです。例えば同じ教室、会社でも楽しい場所だと感じる人もいれば、地獄の様に嫌な場所だと思う人もいるのです。
  皆さんが学校で習った知識では、宇宙があって地球があって、この世界は一つで、それこそ宇宙開闢(かいびゃく)以来この世界はずっと一つで別れたりくっついたりしたことはない、となっています。しかし、凄く現実的に見れば、それこそ物事を認識する能力がある生き物の数だけ主観的「世界」はあるのです。特に人間に問題がありますから「少なくとも人間の数だけ世界はあります*2」とすれば極めて正確な言い方になります。そして無常ですからそれぞれの世界は全て片時も止まらず、常に変化しているのです。
 ところで「自分」とは何なのでしょうか。この肉体でしょうか、それとも心でしょうか。肉体の場合はこの肉体全てが自分なのでしょうか。改めて考えてみるとこれはそう簡単ではない問題だと気付くはずです。「そんなの決まってるじゃないのこの心と身体が自分だよ。」と仰る方もいるでしょう。ではその人に伺いたいと思います。この世に生まれて以来今までの人生で変わってない部分はありますか?身体についてでも心についてでも何でも良いです。体格やあらゆる身体の状態、好きな食べ物、飲み物、その他趣味でも何でもおそらく生まれてこのかた、同じ状態で止まっていて、不変なものなど何一つないのではないでしょうか。ではこれまでに変化してきて、これからも変化するその心でも身体でも、そのどの時点の心あるいは身体が本当の「自分」なのでしょうか?現時点での心と身体が「自分」と言っても、1秒後にはもうとっくに変化しています。一瞬たりとて止まることがないこの心と身体、一体いつのものが本当の「自分」なのでしょうか。ころころ変わって一つ所に留まらない心と身体は、本当に「自分」なのでしょうか。心身を「自分」と定義すると、何年何月何日何時何分何秒のときの誰々が自分だとしてしまうと、他の時間では変化しているから自分ではなくなります。例えばある恋人と付き合っていたときの「自分」と、今違う人を好きになっている「自分」は同一人物でしょうか?それはあり得ないことです。
 これは深く考える必要のあることなので、先を急ぐ必要はありません。読者の方には急がずじっくり、「自分」で考えて頂きたいと思います。
 次回に続く

*1:ありのまま、と言う言葉を「自然に流されるまま」と誤解する人が多いですが、真実をありのままに見るのと、自然な流れに流されるまま、と言う話は大きく違います。後者は欲望、怠惰の流れで苦が減りません。

*2:この「世界」を「有」とかバヴァなどと言います

苦(その2)

 生老病死を超えたと言う事はブッダは肉体が永遠に生きる方法を見つけたと言う事でしょうか。ブッダならその気になれば可能だったのかもしれませんが、そうではありません。実際にゴータマブッダの肉体(五蘊)は亡くなりました。しかし、ブッダの教えによって、当時何千人もの人が生老病死を越えていたとあります。では彼らは不老不死になったのでしょうか。もしそうならその人達は今でも生きている事になります。言うまでもなく事実はそうではありません。
 生老病死を超えた、と言うのは生老病死にまつわる苦しみを無くす方法を発見した、と考えるのが正しいでしょう。
 な~んだ、とがっかりしないで欲しいと思います。生老病死にまつわる苦と言うのは普通の人が普通に生きていたら決して逃れられないものです。それを超えたのですからこれは本当に偉大な発見です。実際には「最高の真実」です。
 さて、「生きることは苦」に話を戻しましょう。人は誰でも普通は死にたくありません。誰でも自分にとって良い状態が永遠に続いて欲しいと思うものです。男性だったら地位も財産も名誉もあって、美人が何人もいるハーレムで若さを維持したまま暮らしたいとかでしょうか。女性なら愛する人と結婚して幸せな家庭を築き、可愛い子供達に囲まれて何不自由なく暮らしたいとかでしょうか。
 もちろんこう言う望みには個人差があると思いますが、「望ましい状態が永遠に続いて欲しい」と言う希望は全員に共通すると思います。
 しかし待って下さい。この世で生じる全ては変化する、つまり無常と言うことを前々回に見ました。無常ですからさっきの「望ましい状態が永遠に続いて欲しい」と言う希望は決して叶うことが無いのは明らかです。人に限らず生物は全て基本的には自らの命を止めようとはしません。生き続けようとします。無常で必ず死ぬのに生き続けようとする、と言うのは必ず叶わない望みをずっと抱き続けると言う事になりますから、これが楽しい訳はありません。つまり「生きることは苦」なのです。
 この世に生きている人で、「ああなって欲しい、こうなって欲しい」と思って、その全てが期待通りになる人はいません。どんな大金持ちであろうが、権力者であろうが「全てが期待通り」で「その状態を維持する」というのは不可能なのです。
 そんな事はない、楽しい事もあるよ、と言う主張があるかもしれません。しかし、結論から言うと実はその楽しみへの期待が苦の原因です。楽しむことが大好きなので、苦しむことになっています。これは理解しにくい話と思いますので、次からもう少し詳しく説明していきます。

苦(その1)

 前回は無常について見てみました。もう少し詳しく見ることが出来るのですが、まずは三相の全体を掴むために次に進みましょう。今回は無常、苦、無我の三相のうちの苦について見てみます。
 皆さんがこれまで生きてきた経験上で、おそらく一日中何ら不快な事がなく、不安や心配な事も一切無かったと言う事はまず無いのではないでしょうか。一日あれば大抵は何かしら不快な感情が生じるものです。
 例えばのどが渇いたのにすぐに飲み物を飲めない状況だとか、外でゴミを捨てようとしたらいくら歩いてもゴミ箱が無くて困ったとか、銀行のATMで長く待たされてイライラしたとか、駅で自動改札の向かいの人に先を越されたとか、上司に気に入らない仕事を頼まれたとか、シャワーのお湯が中々温かくならないとか、暑いとか寒いとか、お金がないとか好みの異性に好かれたいとか、ほんのちょっとした不満すら一切無い一日と言うのは休日でもかなり珍しい筈です。
 結論から先に言うと、生きることは思い通りに行きません。つまり苦なのです。そう言うと「そんな事はない、たまに良いことやそれに伴う喜びがあるから人生は良いものなんだ。生きてるって事は素晴らしいんだ。」と言う人も多いかと思います。
 しかしその話の説明は少し長くなるのでここではとりあえず保留させて頂きます。もう少しこのまま話を続けさせてください。ブッダの悟った真理を理解するには、上に示した様な不満が何故生じるのかを良く考える必要があるのです。ブッダは人は何故一人の例外もなく皆老いて病み死ぬのか、これを何とか出来ないものかと思い、真剣に、必死に生老病死を越えるダンマ*1を探しました。「生きることは苦」というのは、そのブッダが悟ったとき、つまり生老病死を越えるダンマを発見したときに見えた真理なのです。
 人は必ず死にます。長く生きていれば必ず老いて死にますし、病気や事故で肉体の寿命を全う出来ずに死ぬ人も大勢います。普通の人なら誰でも死にたくないと思っているのに、そんな望みとはお構い無しに、必ず死にます。この避け様のない現実を何とかしなければ生老病死は超えられません。
 次回に続く

*1:ダンマとは「全て」という意味、ここでは方法と解釈しても良いです。