一から学ぶブッダの教え-生きている人の苦を減らす-

全く何も知らないところからブッダの説いた苦を減らす教えを学んでいくブログです。

はじめに

 このブログは2500年以上も前に人の抱える苦についての真実を明らかに悟ったブッダの教えを、少しでも多くの人に伝える事を目的としています。私も数年前までは、まるまる苦を抱える無明(無知)の凡夫でしたが、本物の教えに触れることで、明らかに自覚できる水準で苦を減らすことが出来ました。

 日本では仏教と言えば、仏像を拝んで位牌に線香を上げるおじいさんおばあさんがやっている習慣とか、法事でお寺に行って良く意味の解らないお経を聞くものだと見られているのではないでしょうか。

 しかし、本当のブッダの教えは生きている人達のために、今ここでするべきことを示したものです。生きていれば必ず苦しみがあります。ブッダの教えは卓越した観察力で、科学的な検証法を用いた生きている人の苦を減らすためのものです。

 世俗の感覚が邪魔するので、難解な数学の様にすぐには理解、納得出来ないかもしれませんが、極めて客観的に事実を見ると、本当の事しか述べられていないことが見えてきます。

 対象とする読者は、ブッダ本人の教えを全く知らない人から、ある程度の知識がある人まで全ての人です。このブログではなるべく簡単な言葉を使いますが、内容は深遠なので本当の意味で理解する(見える)ためには何度も読む必要があるかもしれません。もちろん一度で納得出来る人もいるでしょう。これまでに読者の方から「以前読んだときは大して心に響かなかったが、先程同じ話を読んだら本当にハッとさせられました。」と言う感想を何度か頂いております。

 ブッダの教え通りに考え方と普段の生活を改めれば、実際に苦しみが減り、遂には全く苦しみのない境地に至るとブッダが断言しています。

 絵空事でない実利のある教えであり、本当に価値のあるものであることを知るのに、このブログがお役に立てばそれ以上のことはありません。

 読み方としては始めの記事からご覧になって頂いても、左のサイドバーのカテゴリから興味のある記事だけご覧になって頂いても全く問題ありません。

 もう少し詳しい話、エッセイ的な話もあります。こちらからどうぞ。

 じん

カーラーマ経

 一区切りついたと言ったブログですが、とても大切な教えが抜けていましたので、今回は番外編です。

 これはブッダがカーラーマ一族に教えた内容で、ブッダの一番弟子で智慧第一と呼ばれる阿羅漢のサーリプッタ尊者は、これが一番貴重な教えだと言ったと伝えられています。下記の十項目の教えです。

1.みんなで言い伝えてきたからといって信じてはいけない。 

2.永く伝承してきたからといって信じてはいけない。 

3.評判になっているからといって信じてはいけない。 

4.テキスト(経典)にあるからといって信じてはいけない。

5.理論に合っているからといって信じてはいけない。 

6.哲学に合っているからといって信じてはいけない。 

7.常識だからといって信じてはいけない。 

8.自分の考えに合っているからといって信じてはいけない。 

9.信頼できそうな人の話だからといって信じてはいけない。 

10.自分の師や僧の言葉だからといって信じてはいけない

 つまりブッダは「ブッダが言ったから」と言う理由で信じるな、と言っているのです。これは「信じるものは救われる」と言う宗教では考えられない事ではないでしょうか。

 これはブッダの教えの一番の特徴で、「現実を良く見て、観察、体験できない、あり得ない事は誰の言葉だろうと、どんな理屈があろうと信じてはいけない」と言う訓辞です。この様な考え方、方法論は現代科学と全く同じと言えます。ブッダダンマが科学と異なるのは、観察対象が現代科学が扱うような無常のものの扱い方、法則ではないことです。 つまり、生きる上で発生する苦を減らす事を目的としていおり、そのために必要十分な教えだけがある点です。

 また、一方でブッダは「どのような教えだろうと滅苦に繋がる教えは私の言葉に一致する」とも言っています。

 ブッダの教えを学ぶ人で一番陥り易いのは、僧(お坊さん)なら1と2と4、普通の在家の人なら7から10全てでしょう。「有名なお坊さんが言うんだから間違いない(はず)」とか、「このお坊さんは好きだから信じる」と言う間違いを犯す人はとても多いのではないでしょうか。実はそう言う信用の仕方には、滅苦の実感や体験に基づく根拠は何も無いのです。ですからそのお坊さんがもし故意だろうと無自覚だろうと間違った教えを言っていれば、滅苦にならない実践をして時間を無駄にする事になります。

 ブッダは既にこの事を2500年以上前に予測していた訳です。その慧眼には全く感服しますが、その智慧もまたブッダならではと言う事が出来るでしょう。

 もしブッダの教えを学んでいる人で、いつまで経っても、それこそ十年以上とか学んでいても欲も怒りも減らずに、心が進歩していないな、と感じる事があるなら、このカーラーマ経に従って学ぶ方法を検証する必要があると思います。

 書いている本人が言うのも何ですが、当然このブログの内容もカーラーマ経に従って無批判に信用する事は出来ません。長くやっても心の進歩を感じられないなら、自分の実践方法と教える人の両方を検証する必要があります。

 しかしこれは言うは易しで実際には簡単ではありません。そこでブッダの言葉だけを集めたターン・プッタタートの「ブッダヴァチャナ」シリーズの本とその和訳がありますので、ご覧になることをお勧めします。

実践する仏教

 一ヶ月ほど続けてきたこのブログも、大体一通りの事は説明できたのではと思います。まだまだ各論や詳しい話はありますが、内容があまり多くなると「一から学ぶ」人には読む気が失せると言う懸念も生じます。なので、このブログも今回の記事でとりあえず一区切り、と言う事にしたいと思います。

 ブッダのダンマは「学ぶ」ものですが、この学ぶは、学校や塾で行う勉強とは本質的に異なるもので、「実践」が一番大切だとご理解頂きたいと思います。つまり、ピアノのレッスンと同じで「自分で体得」しないと意味のないものです。

 学校の勉強は頭で理解すれば納得あるいは体得しなくてもテストの点数は取れます。しかし、例えばピアノは何年習おうが本人が努力して練習して体得し、身に付けないといつまで経っても上達しません。

 ブッダの教え、つまりブッダダンマ( 滅苦のダンマ)もピアノを弾くのと同じで、体得する必要があります。つまり、欲望を減らし、執着を減らし、我を減らすことで、素早く発生する感情を制御、抑制できる様になり、あらゆる「自分」と言う感覚を減らす事が必要です。

 もう少し短く言えば、あらゆる身勝手と所有の概念から生じる全ての苦を減らす事がブッダの教える、目標とする境地です。欲を離れて心がいつも落ち着いている状態になると、心を熱くさせる焦燥は無く、常に心に安らぎがある高級な幸福を得られます。

 そのためには、いつも自分の心に目を向けて、感情が生じる度にその原因を深く探る努力、つまり練習をして欲しいと思います。感情には必ず外部の環境(外側の原因)に対して「こうなって欲しい」「自分の都合通りになって欲しい」と言う欲望(内側の原因)が隠れています。

 喜びの感情も良くないのですが、最初は怒りや嫌悪などの不愉快な感情の方が自覚しやすいと思います。不愉快な時にいつも自分の心の中の身勝手な考えを見つけて、苦しくてもそれを改めて、減らします。いつも自分を正当化して甘やかす考えを、心の中から追い出します。

 罪を犯したのに、反省もせず「これくらいは良いだろう」と言う様に考えるのは、実に毒になります。どうか、愛情をもって親が子供を厳しく躾(しつ)ける様に、自分の心を躾けて欲しいと思います。

 この様に「実践」するのが仏教です。自分も含めた全ての生き物に決して意図的に加害しない心を、常に保ちます。譲って、助け、思いやって下さい。本当に身勝手が減ったとき、全てのものに実体はない。と見えて、何も欲しいもの、なりたいものはないと思えるはずです。そのとき貴方の心は落ち着いて、ずっと続く平安を得られます。それが涅槃です。

 涅槃は遠いものではありません。貴方のすぐ身近にある、どこにでもあるものです*1。このブログが皆様の苦を少しでも減らすことに繋がればそれ以上の事はありません。

   じん

*1:ブッダは涅槃はどこかの場所に探しに行って見つかるものではない、この2m足らずの身体の中にある、と説いています。

在家で出家する

 こちらのターン・プッタタートの短文にもあるように、在家、つまり普通に家に住んで仕事の収入で生活する人でも出家に近い修行をすることは可能です。

 そもそも悟るためには何をしなければならないのでしょうか。それは家から外に出る事ではない事は明らかです。何故なら家の外に住んでいて、仕事をしない人が悟れるのなら、この世に悟れる人は大勢いることになります。しかし、事実は明らかにそうではありません。

 悟るためには執着を捨てることこそが必要なのです。このためには心を正しい状態に保ち、行いも正しくして避けるべきものを避けます。悟るにはこれらの努力をして「自分と呼ぶような実体はない、なりたい、欲しいと思うものは何もない」と心の底から納得することが必要です。

 つまり、仮に家に住んでいても、その家、場所に執着しなければ外でもお寺でも家でも場所は関係なく悟れると言う事です。ブッダが出家を勧めたのは、家に居れば嫌でも色々な享楽や所有物に関わる機会が増えるので、悟るために大変効率が悪いからです*1。しかし家に居たとしても家も含めて全ての物事を「自分のもの」とか「自分の所有している機会」などのように間違って見ず、あらゆる享楽から離れていれば、これは「梵行(ぼんぎょう)」となりますので出家とほぼ同じ生活になります。

 本当に単純に、寝る場所が外であるか、壁の中であるかの違いだけです。むしろお年寄りや体力のない人などは、無理に出家して外で生活していたら、悟る前に身体を壊して死んでしまうかもしれません。そうなっては元も子もないので、在家で出家するつもりで生きることは、現代の人にとって非常に現実的な方法と言えます。かく言う筆者もそのように生活しています。

 ブッダは、ブッダの教えを正しく理解して梵行をしている人は身体が遠く離れている場所にいても如来ブッダの一人称)の近くに居るが、心を正しく修めていない人は身体が近くに居ても如来からは遠くに居ると言っています。

 もちろん在家の人は世俗と関わらなくてはいけないので、仕事や生活に使う物や身分などの何かしらを所有しなければなりません。ですからこれらの所有を心の底から「自分のもの」と掌握すれば執着ですので悟りからは遠ざかります。また、既婚者だと性交から完全に離れる事は難しいでしょう。しかしこれら全ての所有は「一時的な預かりもの」「レンタル品」と正しくみなせば、何かを「自分のもの」とか「自分自身」とみなす見解(有身見:うしんけん)から離れるのと同じように過度な執着はしなくて済みます。性交についても夫婦が互いにそれが苦だと明らかに見えれば、離れる事は不可能ではありません。いきなりは無理でも、少しずつ心がければいずれ可能になります。

 このように生きると、命を繋ぐための最低限の事以外に使うお金は無いので、心はダンマで仕事をします。このように仕事をすると義務を果たした(仕事を布施とした)満足感がある上に、お金も増える一方です。欲が無いので余計な事にお金を使わないからです。

 ブッダは在家の人間は収入の1/4を生活に、1/4を仕事に、1/4を困っている人を助けるために、そして残りの1/4を将来の不測の事態に備えるために蓄えよと言っています。人にもよると思いますが、今の時勢では収入の半分を自由に使える人は中々いないかもしれません。しかし、生活を非常に質素にしてあらゆる享楽(酒、たばこ、あらゆる趣味嗜好)を止めれば生活と仕事に使うお金は2/3位で済むかもしれません。そうして残りの1/6を困った人を助けるために使い、1/6を将来のために蓄えることは出来ます。この割合は各自の事情に応じて、人それぞれで構わないでしょう。

 心がブッダに近づけば、その人はブッダの近くに居ます。一千一万のお経を暗記しても、感情に心が支配される人はブッダから遠い所に居ます。 極端な話教えを全く知らなくても怒らない人、感情の支配下にない人はブッダのすぐ近くに居ます。

 ですから在家の生活をしていても、心をブッダの近くに持っていくための、在家出家は可能です。もちろんお金や取引に関わりを一切持たず、食と生活必需品だけ托鉢する本当の出家の方が梵行としては優れていると言えますが、残念ながらこの様な本当の行を薦める寺院は今は本当に少ないです。

 それに皆さんがすぐ行える上記のような在家出家は現実的かつ非常に効果的な実践であり、一部のお金儲けが目的のお寺や戒禁取だらけのお寺で出家するよりはるかに良く、お勧め出来ます。

*1:厳密にはそれだけとは言えませんが、こう言ってもそう大きな間違いではありません。

お酒を止める(○○を止める)

 喜びの満足の威力から生じる欲望が苦の原因だと言うのがブッダの教えですが、それを聞いただけで誰もが「はい、わかりました」と言って大好きなお酒、食べ物、テレビ、音楽、性的な行為云々の喜びの対象を止められるならそれこそ「苦」労はありません。

 「言うは易し、行うは難し」と言われる様に、何でも言葉にして簡単に実行出来るなら苦労はありません。誰でもそうそう自分の気に入っているもの、のめり込んでいるものから離れることは出来ないのです。それどころか、のめり込んでいればいるほど離れることはとても難しいでしょう。

 ブッダはテレビや音楽、美食などと言った喜びの受全てについて次の様に言っています(当たり前ですが当時テレビはありません)。

 六処入(六根)が(無常なので)維持できないことを知り、満足の威力から生じる旨味を知り、凶悪な害を知り、そして離れる方法を真実のままに知れば、その聖なる人は預流者であり、落ちて普通になることはなく、涅槃が確実で将来必ずダンマを全て悟ると私は言います。 相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻271頁92項

 つまり、六処入であるところの目でも、耳でも、鼻でも、舌でも、体でも、心でも、普通の人は喜ばしい受(感覚)をしょっちゅう求めているのでいつも落ち着きがありません。どこも痛いところや苦しいところがなくても、この様な心の状態が既に苦なのです。

 では実際にのめり込んでいる享楽、楽しみからどう抜け出したら良いのでしょうか。一番手っ取り早くて簡単なのは、出家してブッダについて行く事です。出家した時点で物理的に所有できるものはほとんどありませんし、戒律を守れば六処入の楽しみからも離れなければなりません。もう六処入を楽しむ事が環境的に不可能になります。出家の生活に慣れればその時点で享楽からは離れていて、身勝手さが減るとその生活が非常に清潔で、穏やかな最上級の幸福、つまり世俗を超えたローグッタラの境地である事を知ります。

 もちろん、通常の人の考えではブッダはもう亡くなっているし、出家なんて出来ないと思うでしょう。しかし可能です。今の日本で(日本でなくてもどこでも良いです)働きながら、学校に通いながら、家に住みながら出家してブッダについて行くことは可能なのです。

 この話は長くなるのでまた後で述べたいと思いますが、今回は全ての趣味、享楽を止める方法を説明します。

 私は以前毎日お酒を飲んでいたのでお酒で例えます(今は害が見えて完全に止めました)。お酒の代わりに音楽など他の趣味でも構いません。

 大体のめり込んでいるものは毎日やります。音楽などは酷い人だと24時間ヘッドフォンを耳から外さないとか、頭の中でずっと音楽が鳴っている人もいるでしょう。不愉快に思われるかもしれませんが、こう言う状態は心が一瞬も落ち着く事が出来ないのでターン・プッタタートが仰る所の「目一杯苦」になっています。

 実は趣味や楽しみと言うのは苦だと(せめて知識としてだけでも)知ることは、そこから離れるための絶対必要条件です。

 ただいきなりは離れられないので、毎日やっているなら月に一日は休みます。一日丸々休めないなら、月に一度一時間止めるとかでも構いません。とにかく可能な範囲で離れている時間を増やすのがポイントです。

 ずっと家にいる人で一日中テレビをつけているなら、一日一時間この時間帯だけは絶対にスイッチを切るとか、三ヶ月に一度とかでも見る番組を減らすなどの試みでも大変有効です。

 これは続ける事が大切なので、三日坊主にならないように例えば三ヶ月単位とか、一週間続けてできる方法を各自で決めれば良いと思います。

 お酒なら月に一日休む、それが出来る様になったら二週に一日休む、週に一日休む、、、一日おきにする、週に一日にする、、、とやっていればいずれは止められる理屈です。

 趣味を止められた状態になると、その時に客観が生じます。「自分は何であんなに夢中になっていたんだろう?」と。膨大なお金と時間をつぎ込んで来たものが、実は空っぽのもので、自分の苦を減らすことに何の役にも立たなかったどころか、むしろ色々な苦をもたらしていた事に気付きます。これが「害が見える」と言うことです。旨味と害の全てが見えれば、毒をわざわざ飲む人がいないのと同じで離れる事が出来ます。これをブッダは「知り尽くす」と言っています。

 害より旨味の方に目がくらんでいるうちは、絶対に離れられないので必ず旨味を貪ります。しかし、害が見えれば離れられます。離れられれば旨味と害両方を知ったので「知り尽くした」と言えるのです。

 仏教徒を名乗っている人でも、お金や異性、承認欲求、色んな趣味に目がくらんでいる人は沢山います。不思議に思うかも知れませんが、これは中々自分では気付けない事なのです。だから気付かずに、自分からお金や異性などの目がくらんでいる話をします。

 話を戻しますと、離れる(知り尽くす)コツはとにかく無理の無い範囲でやって、「長く続ける」事です。これが出来れば一度も病院に行かずに、一円もかからず全ての享楽から抜け出す事が出来ます。ブッダの教えは絵空事ではなく、実現可能な事しかありません。

取(執着)と滅苦の関係

 苦の原因である取(執着)は、四つに分類されます。愛欲の満足への執着である欲取、見解への執着である見取、儀式儀礼などを含めた誤った滅苦の方法への執着である戒禁取、何でも「自分」あるいは「自分のもの」と認識する執着である我語取です。

 この最後の我語取は他の3つの執着の原因にもなっています。ひとつずつ見ていきます。

 満足の感覚は「自分の満足」と思うので生じます。他者の満足と思っているものへ執着することはあり得ません。

 見解、考え方への執着は「自分の見解、考え方が正しい」と思うので生じます。他者の考え方と思っているものに執着することはあり得ません。

 儀式儀礼、効果のない方法、例えば神に成功を祈るとか、星の運行を占うなどは、「自分の知っているこの方法に効果がある」と執着することで生じます。他者の方法と思っているものに執着することはあり得ません。

 この様に四つの執着のうち最初の三つは全て四番目の我語取に含まれる事がわかります。もし我語取が無くなれば執着は全て無くなります。しかし最初の三つが無くなっても我語取はまだ残ります。

 例えば自分と他者の善し悪しを比較すること、これは良く慢心として現れます。慢心があると客観性を欠き、酷ければ相手が正しくても間違っていると思い込んだりします。また、ほんのちょっとしたイライラ、禅定への執着などの少しの無明が残ります。我語取さえ無くなれば完璧な解脱で、阿羅漢です。

 仏教が他の宗教と完全に一線を画するのはこの我語取の規定があることです。他の教義ではまだ「自分」があり、「最高の自分」をゴールに設定したりしています。つまり完全な無我が滅苦につながると言う教えがありませんので、苦を完全に消滅させる事が出来ません。

 仏教は発生と消滅のある全てを無常と正しく真実ありのままに見て、我語取を無くすことによる完璧な滅苦を規定しています。

 同じ理屈で無常である心身、つまり五蘊(形受想行識)を自分あるいは自分自身と間違ってとらえること、つまり五取蘊が苦であると知る様にと言う教えが仏教の真髄です。

考え(理性と妄想)

 ブッダの教えには考えは苦*1、と言われることもありますし、熟慮して真実をありのままに見なさいと言われることもあります。一見、考えては駄目なのに熟慮するの?と矛盾している様に思えます。

 この「考え」と言う単語がくせものなので、言葉の定義をしっかりする必要があると思います。駄目だと言われるものは、身勝手から生じる「妄想」です。例えば「あ~宝くじが当たらないかな。」とか、「あの人好みだなお近づきになりたいな。」などと言うのが典型的な妄想です。こういう事は考えれば即苦になりますので「考えは苦」あるいは「行(サンカーラ)は苦」と言われます。

 しかし、身勝手のない思考、真実をありのままに見る思考は必要です。例えば前回述べたような「何故エレベーターで待たされて不快になるのか、腹が立つのか」とか「なぜ人は苦と感じるのか」などと言う事実を良く分析するような思考は理性であり必要です。これも日本語では「考え」に含まれますので混乱の元です。欲と正しい希望の話の様にしっかり区別する必要があります。

 つまり身勝手から生じるあらゆる考えは苦ですが、真実をありのままに見て苦を減らすために理性で行う考えは苦を減らすために必要なものです。後者は完全な客観なので、身勝手な「我」が介在する余地がないと見ることが出来ます。あるいは完全な客観視には主観から「生じる」勝手な理屈で何かを作り出しておらず、「見る」だけなので「行」(作り出す事、サンカーラ)ではないと見る事も出来ます。いずれにせよ矛盾はありません。

 以上の理由から、単に「考えるな」と言ってしまうのは若干誤解を招く表現だと思います。ブッダも熟慮して苦の原因を明らかに見て大悟したのであり、全く何も考えなければ四聖諦を悟ることはできませんでした。こういう真実を見るための思考は必要ですし、ブッダも真実をありのままに見る様に勧めています。つまり、ありのままに「見る」すなわち熟慮する事と、苦になる「考え」とをはっきり区別していないと、こう言う混乱が生じます。これは欲と正しい希望とを混同するのとほとんど同じ理屈で生じる間違いです。

 結論として欲が原因で「ああなって欲しい」とか「こうなったら良いな」と考えたり、楽しいことや夢中になることを妄想する様な「考え」は苦になりますから止めた方が良いでしょう。

*1:経典にはヴィタカ「尋」とヴィチャーラ「伺」として「考え」の話は非常に詳しく述べられていますが、これらの話は縁起なども含めてあまりに詳細になるのでここでは述べません。